愛と口だけの嘘

何かを口で言うから「愛がある様になる」のではない

 

何かの言葉を自分の中に入れて持ったから「恋人(の関係)があるようになる」のではない

 

それは、何かの言葉がなければ、愛もなければ恋人(の関係)もない、と言っているのと同じである

 

付け足したものが本体ならば、頭に被る帽子が人の本体であり、人は人の付属物や飾りという事になる

 

また、足に履く草履が人の本体であり、人は人の付属物や飾りという事になる

 

すると人の本体は上には帽子があり、下には草履があり、2つ本体がある事になる

 

その2つの本体の存在によって1つの飾りである人が共有されているのが一人の人間という事になり、矛盾である

 

これは、地球を南極という惑星と、北極という惑星との2つの星を結びつけている1つの紐が海や大地や我々の国土である、と考えているのと同じである

 

<本物のあるがままの地球>

 

北極(点、未来)

◯←国土(星、今)

南極(点、過去)

 

 

<口だけの人の考える地球>

 

北極という星(過去)

●─────◯
   ↑  ↑
  国土と 南極という星(未来)
  いう紐
  (今)   

 

 

過去にこれを言ったから「今がある様になった」
未来にこれを言ったなら「今がある様になる」だろう

 

この考えは両立しないでいつでも今は今以外のところから作られるという考えである

 

昨日あれをしていたら今(自分)は違っていたんだろう
明日あれをすれば今(自分)は違って来るんだろう、変わるんだろう

 

こう考えているのと同じである

 

それでは結局それらの事を考えている今さえ今に成立していないという事であり、始まりも終わりも嘘の説明をして今の存在を否定している空想の考えである

 

それは一人の主人(主語)が二人の召使い(述語)に仕えている様な矛盾した考えである


愛とはただ寄り添う事である
身も心もあるがままに双方から寄り添う事である

自分で飾って「あるようになる」のは嘘であり、愛の逆方向に進むのが嘘である

 

嘘をつく事は、愛のためではありえない
愛と反対の方向に行く事が嘘なのだから、愛を求め恋人を求める人は、嘘の方向に行く事がなく、嘘を愛のために必要としない

嘘が必要なものは悪であり、善ではない

 

では、人を救う嘘とは何か


それは、愛を嘘の名前で呼んだという事であり、心に思う事は本物でも、そこで言った言葉が何であるかを口で言う事には「これは(小さな)嘘だ」という嘘をついたのである

 

心に思う事だけでなく、口で言う事、行う事に本物であり嘘でない様にする事を、先人は、身口意の三密と説いている

 

真実は正しく理屈は間違い

#1

人は先達から学び、時には書物を通して、真実を指し示される

それを見て自分も真実と知り、理解する

その事によって自分は他者の意見に触れると、真実との差の有無を伝える

 

正しいものは、それがまさに真実から来ているものだと太鼓判を押す


間違ったものは、それがまさに真実から来ておらず人から来ていて、真実とここが違うということを示す

 

そうであるから、もしあなたが、あるものを間違っている、と言うのなら、その時あなたは真実との違いをそのものに対して、ここと、示せるはずである

 

もしあなたが示せる何も持たないなら、あなたは真実を知らないのであり、それが間違っているという事も知らないでいて間違っていると言っている事になる

 

例えば、水の沸点は100度だと言うと、ある人は98度で沸騰することもあるから間違いだと反論する

 

しかし、水が沸騰を起こすその温度が、100度が目安になるという話であり、それ以外の話はない

 

つまり、98度が沸点だというのは、数字の98の意味の一つが水の沸点だという話であり、それは科学の水の沸点の話ではない

 

科学では、水の沸点の一つが、98度なのであり、他の一つが100度なのである
これはまた、他の一つが101度であるという事もある

 

その中で目安を一つ定めて100度としたのであり、それは畑で収穫した野菜の山をその種類ごとに一つに代表して人参といったり、大根と言ったりするのと同じである

 

あるいは、それらの飼い犬を単に犬と言ったり、親がその兄弟たちを子供と言ったりするのと同じである

 

いわば、太郎と花子と梅子と次郎は私の子供である、という話を、反論者の彼は、「いや、花子の意味の一つが子供なのだ、太郎の意味の一つが子供というのは間違いだ、子供なのは、太郎でなく花子だ」と言ったに等しい

 

それは、「いや、98の意味の一つが水の沸点なのだ、100の意味の一つが水の沸点というのは間違いだ、水の沸点なのは、100でなく98だ」と言ったに等しい

 

しかし事実は、すでに言った通り、水の沸点の一つが98度であり、また、100度である。98や100は、水の沸点の一つ一つである、という事である

 

これを彼は強弁して言い訳し、「100だけが水の沸点ではないのだ」と言うのなら、その時点で98も100もどちらも水の沸点の温度としえありうるので、何も間違いではない

 

ましてや、98度との指摘で否定される自分の考えがないのであるから、何も間違いではない

 

何が間違いなのかを彼に問えば、彼は、「100だけ、と言ったのかと思った」とお茶を濁すしかあるまい

 

この事から反論者の彼は、単に論点をずらした作り話をふっかけて、他者を陥れようとしたに過ぎない


それは小学生の間で流行る悪意のあるとんちの類であり、他者をやり込める低級な理屈を面白ばなしの雑学として覚えるような事の類である

 

その悪性の性根が抜けないと、学問の畑の中でそのやり込めのとんちを常習するようになる

 

#2

理論とは 何かがうまくいかないからそれを解決するために生み出されるものである

 

ならば 新しい理論を提唱するということは 何の問題を解決するための理論なのかと 説明することが必要である

 

さらにはその理論の中で出てくる自前の定義や用語の類は全て説明されてあるのでなければならない

 

そのようにしてから 初めて 世の中で その理論を用いた言論をすることができるのである

そうでなければ 他者と通じる話の地盤がないその話の地盤がなければ 言葉も通じないのである

 

それで結局、真理を語るとはどういう事かというと、それは(その語る人に)資格がある、という事である

 

資格がない人は、真理を知らない人である
真理を知り、理解するには、そこまでの学びや修練が必要である

 

それが整った後に初めて真理を真理と知れるのである


これは、事物を事物と知るためには、自らがそれに目を向ける準備が整う事が必要なのに似ている

 

見なければ、知る事もない
知らなければ理解する事もない

 

すると、「存在とは認識する事である」というある近代哲学者の言葉は真っ赤な嘘である事が分かる

 

それは、資格が整って初めて真理を真理と知る事に、似ても似つかない


それは、私がそれを認識してやれば、そのものは私の向こうに存在するようになる、と言っている

 

しかし、私の向こうにあるのが事物であり、また基に帰って、私がその真っ只中にあるのもまた、事物である(それは人の中の観念の話であって人の外の事ではない事は言うまでもない)

 

つまり、向こうにある事と真っ直中にある事は決して切り離されておらず、真っ直中を否定し、事物と関わりなくその外から眺めるというような、向こうにある事物それだけが実在、というような近代的な(古代からあって未だ絶えてない)詭弁思考がここでは成されている

 

それは、議論の論点のすり替えの手口である

 

また、これは、98度も100度も共に、水の沸点の一つ一つというのと同じである

 

しかし、先の哲学者の考えは「100度が水の沸点だと?98度で沸騰しているではないか」というのと同じであり、水の沸点を考える私の向こうに98度がある、という考えで、水の沸点を考える私にあなたの見た98度も、私の見た100度も、共にある、という、水の沸点が主語、温度が述語の話をしないで、98度が主語であり、水の沸点が述語である話をすることが正しいと主張している

 

しかし、科学で、98度を主語にした、水の沸点という述語の話がされている事実はない

 

哲学でも同じ

 

私の認識を主語にした、向こうにある事物や、真っ直中にある事物や、自分の中にある内面的な事物などの述語の話は哲学でなされるが、向こうにある事物を主語にした、私の認識という述語の話がされている事実はないのである

 

つまり、先の近代哲学者は、学問の畑の中で、すでに心を傷つけられて恨みを持つ子供の喜ぶ悪意のとんちやり込め話に興じている悪意のある人間である

 

そういう悪意のある低級な思考法が流行するのは、流行とは悪の意図が巻き起こす混乱に他ならないという事である

 

社会の現実は常に善の意図や意志からなされているそこだけで動き、こうして歴史を紡いできているものである

 

 

かわいいという感覚と支配欲

男尊女卑の男性とは、か弱い女性を守りたいから、お前は俺より低学歴、低収入、低才能でいろ、という要求をする人の事です。


それは、東大生の女性が合コンなどで自分の身分(学歴)を明かしたがらないことから分かるように、悪意がなくてもこの国に生まれ育つ事で自覚のないままにその社会の空気に忖度して陥ってしまうのが男尊女卑であり、男尊女卑は社会にはびこる悪思想が生み出した集団幻想であるという事です。


社会にはびこる個人思想が、男性を男尊女卑に洗脳し、男尊女卑に染まった男性が、女性を男尊女卑で洗脳する事で始めて女性の被害が生じる、という二重の悪の洗脳手口です。
悪の親玉は観念論(=相対主義懐疑主義)の個人主義思想とその流布者なのです。


そう結論するに至った過程を説明します。


ある本を読んでいて、かわいいという言葉について、児童への性犯罪者が言うかわいいには違和感を感じるという問題提起がなされていました。


辞書には、かわいいの語には、小さくて弱いさま、という趣旨のことが載っています。しかし私は、絶対的に社会のものとして、そのものがいまだ発達の途中の段階にあり、社会における成人などの成員や成体として見做せないもの、として考えられていると思います。


つまり、自分より小さく弱く比較的に劣っている、というのではなくて、自分がその観点においては成体にまで達しているのに、相手はそうではない、という社会的な判定が行われた事を表すと思います。自分を基準にした相手の発達の程度の比較ではなく、成体という理念的な状態を規準にした未熟体との判定を行っている、のです。


この理念的というのは、目で見る物質ではないという事です。そうであるから、肉体の計量によって測られるようなものでは初めからないのです。


そこで、萌え絵の様な、この様なギミックの肉体的視覚的表現を入れればそれが幼さを表す記号となって「性的メタファー」となってその絵のキャラクターを萌え絵のキャラクターにする、という考え方は一大虚妄なのです。


また、それを知っているからこそ、幼女にしか見えない背丈や肢体の少女のキャラクターを18歳だから性行為表現も合法だ、というような奇怪な脱法行為が行われたりするのです。


では、誤った女性認識とはどういうものでしょうか。それは、小さく、弱い、か弱いから、守ってやらねばならない、という考え、であると思います。小さい、弱い、あるいはだから劣っている、というのは、事実であると言えるでしょう。

 

問題は、だから自分が守ってやらねば、という一種の恐怖心の歪んだ偽善のような考えがそこに結びつくというより、取り憑いて侵入侵害をするということです。

そもそも、かわいいというのは、小さく弱く発達が途上にあって先で成体となる段階がある、という事実を見守るような気持ちのことであれば、それは社会共通のものであり、絶対的で社会性の認識のことであるはずです。それはいかなる個人的な感情でもなければ、個人的な欲望(の満足)の事でもないのです。

例えで言えば、男女という性の分化の区別の関係は、靴の左右がある、というようなものの事です。

 

右足につけるのにとって、右の靴は優れ、左の靴は劣る。
左足につけるのにとって、左の靴は優れ、右の靴は劣る。

 

まずこれは、右足につける、左足につける、という事が本題です。そのうえで、左右あるそれぞれの足につけるのに、どちらの靴が最適か、という話であり、靴の片側が反対側より靴として優れているという事ではありません。そこがまず男尊女卑や女尊男卑の考え方の誤解です。


それから、右足につける優秀さがないから、右の靴が左の靴にその劣っている部分に優秀さを教えてあげる、与えてあげる、というのが、男尊女卑の考え方です。

 

当然、左足に合うという優秀さを左の靴が右の靴に与えようとするなら、それも逆の間違った考え方であり、差別思想でしょう。

 

いずれにしろ、守るということは個人である男性の側から女性の側に、あるいは、個人である女性の側から男性の側に、何かをする事、ではないのです。社会という絶対の一のものから、一方は一方のために自らが動かなくてはならないのです。


すなわち、右の靴は右の足に履かれなければならないしそれが右の靴のするべきはずの事なのです。左の靴は左の足に履かれなれけばならないのが、左の靴のするべきはずの事なのです。


決して右の靴が左の靴に、何かをしてやり、命令をしてやり、なにかに従わせて何かをやらせる、という事ではないのです。その逆も然りで、左の靴は右の靴に何かをやらせる、という事ではないのです。


ここで一つの場面を考えてみたいと思います。

男性が女性の前にいきなり現れて、「私」があなたを守ってやると申し出たらどうなるでしょうか?


これは女性の側からすれば、なぜ自分が「あなた」に守ってもらわなければならないのか、という疑問になります。理由もないのに、「あなた」という個人が現れて、自分が守られなければならないのか。


このおかしな申し出をまだ自我の定まっていない女児が大人の男からされる事になると、女児は「あなた」のために「わたし」は創られた、という様なその男にとって都合の良いだけの幻想に「洗脳」されていく方向に流されていく事にさせられてしまう事になるでしょう。

 

そうなると、一度「無縁(無関係)の壁」を超えることを許してしまった後は、その男の求める欲望は濁流のように押し寄せてくる事になります。

 

さらにはその男は事前に「断る理由があるなら言え。示せる証拠がないなら言うな」というような理屈での脅しを優しげな言葉に偽装して親切であるかのように見せかけて言っておくことで、女児から逃げ道を奪い去ろうとします。


ここでノーと答えるだけの理知のないのが女児であり、そのような理屈に反論する事は大人の女性でも無理な話なのですから、そこでノーと言えなければ、その女児は訳が分からないまま男のなすがままに押し切られていく崖っぷちの瀬戸際に立たされる事になるでしょう。

 

話を戻すと、守る、という事は個人から発するものではなく社会から発するものです。そのうえでそれぞれの持ち場にある存在を守るというのがそれぞれの個人の役割です。いわば、弱者を守るのは社会の仕事なのです。


そしてその報酬は、決して自分の性欲の満足や復讐心または支配欲の満足ではなく、弱者が守られるという事実です。最後にお姫様に対し性的交渉に手を付ける従者のヒーロー譚というのは悪心由来の虚偽の物語です。


個人の立場で受け持つ社会の責任を超えたところに、弱者を守るということは成立しえません。
その自分に天や社会から与えられた分限を超えて弱者を守るということを行おうとするところに、間違った男尊女卑が現れる事になります。

 

男尊女卑とは、女性が男性に忖度する事を強いられている、と言われることが多いですが、事実はもう一段複雑なのだと思います。
それは、男性が女性に誤った理解を持つ事で、その結果として誤った忖度を求める事になっている、という事です。


上で述べた様に、男尊女卑の男性は勝手に社会から与えられた自己の分限を超えて、自分の我欲のための行動をしているのですが、その自分を自分では女性を守る事をしているというふうに虚偽の美化をしています。
そういうふうに事実を偽装すると、自分はあたかも白馬の騎士であるかのように正義のヒーローという空想に酔うことになります。


そこから女性に向かって、あなたを守ってやるのだから、忖度しろ、尊敬しろ、という命令が出てくるようになり、それはもともと支配欲から出たヒーロー幻想であり、相手の立場や事情や交流関係などお構いなしなので、一方的に侵害してくる不正な命令にしかなりません。


そして、支配する男性側は、その意に反するような事、例えば、自分が守ってやらねば生きていけない(というふうに既に虚構の物語が男性の中ではできあがっている)小さくてか弱いのが女性だからこうして奮起してヒーロー役を演じようと努力しているのに、その女性の方が学歴が高い、社会的地位が高い、収入額が高い、芸術的才能が高い、などの事が明らかになると、とたんに男性の側は、話が違う、私がヒーローを演じる役の世界設定はそうじゃなかった、と駄々をこね始めて、とたんに関係は嫌悪なものに変わっていくのです。


そういう愛憎劇は洋の東西を問わず、政治家や映画関係者、文学者や芸術家や哲学者などの間にはいくつも見られ、広く知られているものです。


結論として、男尊女卑は、二段構成なのであり、女性を小さく弱く劣ると見ることが間違いなのではなく、間違いは個人の勝手な幻想を相手に与えて押し付ける事をし、その事に忖度を要求する事にあります。


それはとどのつまり、男性が個人として女性に何らかの要求や命令をする事が社会的に何らの正当なものではない、という事であり、その思い違いは自分という個人が特別に理由もなく、それでも相手という個人を守ってやっているのだ、守ってやらなければ相手は何もできないのだ、という現実無視にして相手無視の幻想から生じている、のであり、それをやめたら自分のヒーロー像が崩れる、という利己欲しかない、という事です。


一言で言えば、自分がヒーローであるために、その女性は社会的に小さくてか弱い劣った存在である事に反して、個人的にも自分より小さくてか弱くて劣った存在である事を求める、のが男尊女卑という事でしょう。

 

プラグマティズムのもう一つの間違い

もしプラグマティズムで教えているような「必要があるならばいかなる場合でも信じて良い」
「有用なものは全て真理である」という事であるならば、その理屈の裏を返せば(対偶命題を取れば)「信じてはならないのは必要がないものである」「真理でないなら有用なものではない」となります

 

これは真理とは言えますが、重大な欠かせない条件があります

 

客観的な社会の(全体にとっての)事実として有用であること

 

これが欠かせません

 

しかし、プラグマティズム的な文脈で語られる有用性とは、私が損をしない事、で、あわよくば私が得をする事、あるいは私が得をすると思える事、そのようになり、それはその思想の発案者が直々に考えているらしい事が、話を聞いていて見て取れるのです

 

(私はプラグマティズムを提唱した人たちの著書を読んだ事はありません。しかし、解説を聞くだけでおかしいと分かっている理論の原典を読むほど苦痛な事、無益な事、そして読んで学ぼうとしてもその教えには無益で有害な事しか教えてない事がはっきり分かりそれらの矛盾点を明確に指摘できるようになる、というだけの学びにしかならない、という事は、経験としてよく知っています。

 

つまり、嘘だと分かる嘘について、普通の人はそれ以上言わなくても通じるので、それ以上の詳細は感知しません。それで普通は上手く行き、それが社会とか社会の通用性や常識があるという事ですが、その常識がない相手ほど、ここに論による論破を要求してくるのです。

 

その論破がなければ、社会で言う嘘であってあからさまに嘘だと分かっていても、口だけで証拠がないと言って彼らは人々の足元を見て嘘を押し通し日々悪事を重ねているのです。

 

そういう悪の人たちを懲らしめるために、誰かがその彼らの信奉する悪の原典に切り込んでいってそれを研究し、彼らの嘘を根底から白日のもとにさらして虚無であることを暴かなければ収まることがないのです

 

ここに2つの種類に分かれることが見て取れます

 

悪の理論を、悪であることを暴くために読む人

 

悪の理論を、悪であることを賛美するために読む人

 

後者は、そのままでいる事は社会で許されない人々です)

 

つまりは、どういう事かというと、

 

「あの人は私の言う事を聞かないで、私に逆らって私にお金を運んでこない。有用でないから、あの様な人はいらない、あの人は間違っている」

 

と、この様に考える事が「真理」という事になってしまう事をその理論(プラグマティズム)が許す事になるのです

 

こういう考えはどう見ても真理ではありません


そしてこういう考えをする人が、プラグマティズムは正しい考え方だ、役に立つ考え方だ、と傾倒して、世の中の常識に逆らっているようにしか聞こえないでその実真理の反対であるその説を吹聴したりする事になるのです

 

根底においてほぼ同種の考え方にストア派の哲学というのがありますが、ここでは深くは触れません

 

さらに、元に帰ってプラグマティズムの理屈をよく見てみると、次の事を言っている事も分かります

 

「必要があるならばいかなる場合でも信じて良い」

 

の対偶命題

 

「信じてはならないのは必要がないものである」

 

は、信じではならないものを、必要がないもの、と教えていることがはっきり読み取れます

 

また、

「有用なものは全て真理である」

 

の対偶命題

 

「真理でないなら有用なものではない」

 

は、真理でないものとはどういうものかという事について、それは有用なものではないという事だ、と教えています

 

これらは正命題を表とし、対偶命題を裏としての表裏一体を確認する事で、その主張の言わんとすることの全体像が分かるという事です。決して正命題では分からなかった事が、対偶命題一つで語られる、という事ではありません

 

ここには一つの齟齬があります

 

有用でないというのがブラックボックスになっています。つまり、有用であるという事は、最後の最後までその対象と付き合った後に分かる事ですが、それが分かるか分からないか、ひいては、それが有用であると結論が出るか、有用でないと結論が出るかは、最終結果という事になります。

 

すると、プラグマティズムの教えというのは、最後になってみればその時はそれを考えた人に明瞭に分かり、また最後までそれを考えるのでなければ分からない事を事前に持ち出して、あたかも初めからなにかの予言でもするかの様に意味深な言い方をして人々の信奉を求めているような詐欺商法をやっているのです

 

つまりは、「1+1」を解いて2が答えだと分かった時に、「◯+△には必ず答えがある」、というふうに見せかけて、「◯+△には必ず答え2がある」、というふうに騙って人々を欺いているのです

 

そうして、我らの教えを信じよ、「◯+△には必ず答えがある」は間違いだからその教えは捨てよ、「答えが2である時に限り、◯+△は正しいのだ」「だから選挙では『答え2』に投票せよ」という様な嘘の教義を世に広めて悪を栄えさせようとしているのです


また、ここでの有用というのは、あくまで人の立場から見て良いところがないと分かった時に、人の立場にとっては有用でないと結論がつく、という事をいうものです

 

これは人の社会の話なので、本当のこの宇宙やこの星の全体を考えれば、人にとって無用でもそれ以下の生命の連鎖循環の機構の中の一員にとっては有用であるという事もあることが分かります

 

人の世界というのも、この星の中で最上位であるとも言えません。人にとっての有用は、それより上位の存在があるとすれば、そのお下がりなのです

 

こういった考えから私に有用でなければ信じてはならない、という考え方を採れば、他者への侵害や自然破壊に容易に結びつく事が考えられますが、残念ながらそれは既に実現しています

 

また、個人の立場で有用でないからと、自分の都合の良し悪しで他者を間違っているという事を正当化する事にプラグマティズムは貢献していて、その教えの中にはそれを防ぐような論理はどこにも見られません

 

なにせ、提唱者がそういう個人的な目線しか持ちえていないのですから、個人主義を廃するどころか、個人主義を繁栄させるための考えなのがプラグマティズムです

 

さらに話を進めると、必要というのも有用というのと同様です。社会という絶対の範囲の中で必要ないと結論されるものでなければ、一部の部署や範囲に必要なくても全体にとって必要である事はすぐ分かります

 

例えば、本をリサイクルに出すとすれば、その古本の買い手が売り手の反対側にいると考えて成り立つという事でやっている事になりますが、プラグマティズムにかかると、売り手にとって必要ないからその本は信じてはならず、有用なものではない、という事になります。すると、買い手にとってもその本は有用ではなく、買い手は手に入れたその本の内容を信じてはならないのでしょうか。そもそも売り手は自分が信じてはならないと認め、有用でないと思うものを、他者に譲るのでしょうか?それはどういう譲渡なのでしょうか?


まさか、ゴミや有害な物質を、自分は困るから他者に持たせておけば良い、という考えでしょうか?それは原子力発電所から出る核廃棄物を世界の首脳陣や知識人がどう扱っているかのそのまんまではありませんか?

 

こういった事を考えると、プラグマティズムの教えは一見真理を説いているように見えて、その実は聖書にもある「果実を見てその木を知る」の言う知恵の言葉に似せる事で、個人主義という虚偽を真理にみせかけ、個人主義を正当化するための試みであったと理解できるのです

 

上で述べた「◯+△には必ず答えがある」を書き換えたのが「◯+△には必ず答え2がある」でした。これは、「答えが2であれば◯+△を考えてもよい、行ってもよい」という命令とも受け取れます

 

「結果の有用性を見てその考えの正しさを知る」というのが聖書の教え「果実を見てその木を知る」でしたが、これを書き換えたのが「結果の有用性を見てその行動の正しさを知る」というのがプラグマティズムの悪の教えです

 

これは「結果が有用だったと主張できさえすれば、その行動は正当と主張してよい」と人々への脅威となる横暴を正当化する考え方です

 

この考え方にはどこにもその行動やその結果の正しさを証明する客観的事実がある事を必要で欠かせないとする考えはありません。全ては「自分が主張しさえすればよい」の口だけで押し切るという横暴しかないという事です。これがそのまま現代人の考え方に採用されて、世界中で日々いたる所で行われているのです

 

実際プラグマティズムアメリカで発祥し、世界に広がりましたが、その考え方はアメリカで一山当てようと考える利己的な人たちにとって都合が良かったのです

 

その事でアメリカという国は、自由主義の精神と言いながら、そこにそれに似て非なるプラグマティズムがいつもくっついていて、結果としては他国に評判の悪い底の浅い考え方しかしない利己的な個人主義国家と成り下がっているように思えます

 

その事で一番迷惑しているのは、純粋な、真理を重んじて生きているプラグマティズムと無縁のアメリカ国民でしょう。一部の知識人が、利己的なプラグマティズムを武器として、自己の我欲を正当化しながら横暴を働いているに過ぎません

 

 

 

 

心で思うことの責任

先程私は、大根おろしで指を切りました

 

大根が輪切りになる刃が出ている裏側で、納豆に入れるための大根の切れ端をすっていて、手を切ってしまったのです

 

その後20分以上右の人差し指の先から血が止まりませんでした

 

大根おろしを受けるお椀の中を見ると、大半の大根の部分が輪切りになっていました

 

私の感覚では何も作業が働いてないで効果がないという実感のつもりだったので、何もできていないという観念に取りつかれて、注意が散漫になっていて事故を起こしました。

 

しかし、その上の空の中でも、あからさまに自分がやっただけのことは形に現れていて、輪切りの大根の山ができていて、私は「何もできない存在」のようにその場で扱われていても、私のしたことは他者が何と言おうと何と思っていようと、やった通りにやっただけは確実に形に実現するのだと思いました

 

ちなみに今人差し指はティッシュにくるんで中指で文字を打ってます

 

他者に、時には身内に否定されていても、あなたは存在します

 

あなたがおかしな他者の考えに巻き込まれた時、自分が傷付いてしまっても、あなたが悪いのではありません

 

あなたはむしろ自身を粗末に扱った事を、あなたと、あなたを生かして下さる力の源にお詫びしなければなりません

 

これは宗教ではなく事実の話です

我々は皆、生かされている存在です

 

その後、部屋に帰って不思議なことがありました

 

部屋の中にいるカメムシが仰向けで毛布の上に転がっていました

死体かと思うとまだ生きていました。しかし、前足の一本だけ残して他の足が皆ないのです。

 

とりあえずしばらくは何が起きたのかと、そのカメムシを見つめていました。そのままそこに放置しておくと踏んでしまうかもしれないので、よそへ場所を移すことにしました。

 

カメムシは、ほとんど自力で起き上がれないで一本の片前足だけで起き上がろうとしていました

 

このカメムシを外へ出して捨てることはできませんでした

 

ただ、先程の大根下ろしでスパッと指先が切れたという自分の観念を思い出しました

 

観念は、自分の世界に実現する

そんなことを思いました

それは他者や他の存在の上に実現するという事です

 

私の観念どおりの存在が私の目の前に表れる事になりました

いくらカメムシでもそのような姿を見るのは、私の望んでいる事ではありませんでした

 

我々は決して悪の観念をいかなる形でも想ってはならない、それは世界に現れ、その世界は他の存在と共有しているのだから、観念は他者の身の上に現れてくることになる

 

そうとしか理解できない奇怪な現象でした

 

私は私、あなたはあなた、ではない

 

そのことの深い理由を今日初めてこの出来事を通じて教えられた気がしました

 

 

 

 

 

 

理性と欲望の観点から分かるポルノや萌え絵が社会に許されない理由

「あなたの説得をする事など私にとって問題ではない
あなたの主張しておられる説は社会的に全く重要ではないし、何らの価値も持たない」

 

これは、私がSNSのある人(たち、と言ってもよい)に言いたい事です

 

その人の主張は、端的に絶対的で変わらないもの、の存在を、なんの根拠もなく自分の説明が辻褄がなんとかつく、ということを根拠に否定しています

 

それは端的に一点が一点に結びつけば真理だと主張しているに他ならず、後付けの嘘は皆真理だという事になるずさんな思考の産物です。机上の空論です

 

なぜなら、この社会に、時代を経ても色褪せない、という観念や認識があり、常識があり、それらを疑う者はすなわち世界の理に反逆して自らを窮地に陥れるものとして理解され知られているからです

 

それを、口の技で辻褄が合うような理由を考え出せたり、相手を言いくるめたりできれば、問われている矛盾の指摘から逃れおおせた、と一人で考え、その一人の考えの中に閉じこもる事で、その態度を押し切る様というのは、以下に挙げる例の幼児そのものであり、それを大の大人が社会の場で臆面もなく公然とやるのですからその害も大きく、それでいて平気という態度は、大変な無知と言わざるをえないのです

 

スーパーで「あのおもちゃ付きのお菓子買って」と駄々をこねて床に転がって泣き喚いている子どもと同じ

 

その人の主張には、社会であるとされて今もその上に立っているのが今の社会や人類の歴史だという事を、ひっくり返そうという意図や魂胆がある事が分かります

 

いわゆる常識や、真理や、教えや、知識といったものに、「そんなものは個人の考えに過ぎない」と言い切るような、どこからそういう発想が導かれてくるのか、それに対応するこの世界の現実の事例が何も思い浮かばない、根拠のない、実体のない、空想の論です。むしろ、妬みや恨みからなら、そういう考えも出てくるだろうと分かるような発想の論でしかありません

 

そこで、まず、先の例を考えてみます。
駄々をこねる子供をどう扱ったら良いか、というもう一つの問題です

 

プラトンの『国家』という(ソクラテスが登場する対話篇の)著作に教えられて私はその解答を明確に理解しました。今回参考になった部分は岩波文庫の『国家(上)』の最後の辺りです

 

私はそこで分かったことを次のように説明します

 

 人には理性がある
 人は時に理性に反する欲望を起こす
 理性はその欲望を抑える
 理性と欲望は理的な綱で結ばれておりその力は拮抗する
 そこに気概、即ち今で言う感情や情動というのがいずれかの側に加担する事がある
6 気概が加勢した側が力が勝ることになり、その結果その側に押し切られることが起こる
 理性か欲望かのいずれかにその人は進む

 

上の子供の例で言えば、気概が加担したのが欲望の側だったから、床で泣き喚くという方に突き進んでしまったと言えます。の段階の部分です。しかしここを分析し(終え)たという事は結論ではないです。ここは、単なる部分の分析の一部分に過ぎません

 

他の部分を見てみると、もっと前に帰って、理性に反する欲望が生じた、というのがあります。の部分ですが、これは通常、理性があれば、欲望は初めから素通りされるものです。

 

例えば、ある商品の広告を見てそれを買うと、大変な損をした、という経験をした人は、同種の広告に買い手としては見向きもしなくなるでしょう。むしろ、同種の広告に対してその詐欺性や犯罪性などの悪のものであることを訴える人、あるいは被害の証言者として社会に立つ人になる、と言えるでしょう

 

また、女たらしの色男の誘いに乗って酷い目にあった女性は、以後、同種の男性に警戒心を持ち疑いの目で見続け、やはりこちらも社会的には結婚詐欺などの犯罪やその他の危険性のある悪についての社会的な証言者となるでしょう

 

これらの例は共にの段階で欲望の側に気概が加勢するようにして欲望に負けた人たちの痛い教訓を学んだという話です

 

この人たちはそれぞれの経験し関わった分野での事柄に対し、の段階より先に進むという事はなくなったと言える人たち、と言えます。

 

少なくとも社会では上のに進んでしまう事が起きる事がないように、親心で、何らかの教育を授けているのであり、理性はその教えの知識を聞いて知ってはいたはずです。

 

つまり、親から教えられた事、教師やその他の教育的役割にあった大人から教えられた事があり、それを聞いて知っていながら、理解せず学ぼうとしなかったために、自分が痛い目に遭って思い知るまで、それらの教えが正しいことに気付けなかったのです

 

つまり、その人たちは理性の一部となる教えの知識を拒んで耳を貸そうとしなかったために理性が一部、働いていなかったのです

 

理性が働いていれば、そもそものような、欲望が素通りされる、事にはならないのです。


すなわち、欲望に引っかかり躓いて転んで、それでも立ち上がらずそのまま泣き喚く方に勝負の利があると見るような、無理な欲望でも押し通せば勝てる、という様な、心の無知な決断という事がなされる事は起こり得ないのです

 

では、例えの本題に帰って、その駄々をこねる子供はどう扱ったら良いでしょうか?

 

欲望に負けることを戒め批判し罰を与える、事ではないのは明らかです

 

理性が欲望に躓くということも有り得ません。躓いたのは己の無知な心なのです。すなわち己の気概が理性を捨てて欲望の側に加担しても勝てるという間違った見込みを生むほどの心、気概の無知が、欲望に負けるという事の心に起きている実態です

 

すると、無知ということが最大の悪の原因という事になります。その原因を除くには、正しくて変わらないものがある事を知る事、です。正しい種を蒔いて、正しい方向に正しく伸ばすという事をどうやればできるかを知る事、です

 

そういうものの無知が、その人に悪の心や誘惑に負ける心の動きをもたらし、その人を不幸に駆り立てるのです

 

1を求めないから、1もないのに2を求める事をし、当然それが叶わず、そこでも自分は間違っていたミスをしたと考えを進め、反省せず何も直さず、3を求め始める

 

そういうのが無知な人の典型的な思考方法であり行動様式です

 

例えば人に対する妬みが憎しみに変わり、殺意に変わるというのもそういうプロセスです

 

そうであれば、理性の声に反するようなものが作られたり、売られたり、宣伝喧伝される事は、社会にあってはならない事のはずです。偽物の商品、粗悪な商品や、それらを売りつける詐欺の商売というのが社会に野放しになっていてはならないでしょう。悪を容認する自分さえ良ければの個人主義やその拡大版である民主主義の思想も、プラトンが説くまでもなく、道理に従って良く考えれば当然、許されるはずがないのは分かるはずでしょう

 

女性を次々に騙す色男風に偽装する心は貧しく醜い、そもそも女性にも男性にも愛されるはずのない醜悪な男の働く結婚詐欺が、社会で許されてはならないでしょう

 

それと同様に、女性やはたまた男性や、主に女子児童を性的に玩具や道具のように扱い自己の性欲のために消費して良いと考えるような作り手によって作り出されるポルノ、児童ポルノの映像記録や漫画、アニメ、ゲームなどは、当然それらの存在ひいては制作が社会で許されるものではないでしょう

 

それらを自由に手に入れられながら、欲望に負ける人間が悪い、という虚構の自己責任を問うその論こそ、自己の責任と言うべき理性の保守と学びをおろそかにすることを高らかに説く悪の擁護思想というべきです

 

そうでなければ、理性というものそのものが、誘惑に負けることが悪いのだという虚偽の自己責任論によって否定されることになります

 

理性と誘惑が拮抗するのが第一の堤防に濁流が押し寄せたという事であり、濁流は欲望の心が起こした嵐によって引き起こされています

 

それは理性という晴天が欲望の種と言える黒雲に覆い隠されてしまった後の結果です。欲望の種を撒く事、をしたのは、理性に反する悪を社会に容認したという事に他なりません

 

すなわち、悪の心から始まっている、他者への侵害を考えて自己が奪い取る事に喜びを見出している心、それを肯定して容認する事で、社会に悪産業や悪の品々、例えば偽物の商品、ポルノ、AVや萌え絵漫画等、が堂々と並べられて売られる事で、社会に悪の種は蒔き続けられているのです

 

それを放置して、芽が出たなら摘み取ればよいのだというのは、それはニンニクの芽の栽培と販売の農産業の展開と何ら変わりはなく、培養と展開に他ならないのです。すなわち、悪心の培養と展開を社会で大々的に行っているという事、です

 

ましてや、悪心から始まる展開に対して、それを善の悪心、悪の悪心と切り分けて、一方には生産や販売許可を与え、一方には生産も販売も禁じ、破れば罰を与えるなどの、規制しているのだから問題ない、合法だから問題ない、違法でなければ問題ない、と後退転倒した罰則主義のような事を社会に開き直って展開するのも、悪心の容認の事に他なりません

 

もし、それらの悪商品が、単なる機械だ、工芸品だ、映像だ、絵だ、それを悪く取るのはその者の心が悪く、そのように勝手に解釈し想像しているだけで、非や責任はその者にあり、霊感の壺や、児童ポルノビデオや、萌え絵の性的な漫画は悪くない、というのであれば、それらはことごとく理性の声に反するのです

 

理性の声に反するような品物は、理性の声に反するような心から生み出されています。そういう品物を、悪でないと言い張るには、理性がない、という前提を主張として立てる必要があり、それらの擁護者はそれを社会の「外」すなわち理性のない荒野に出ていって、そこから声高にその主張を叫んでは、社会の理性ある領域の中に侵入をしてきているのが、今の世の有り様です

 

ここで必要な措置は、彼らとその主張の悪心を、社会の外に追い出す事です

 

これはすなわち、古来から言われてきた、鬼は外、福は内、の真理に他ならないのです

 

 

 

 

観念論者(=相対主義+懐疑主義)の嘘(1)

あるものがより大きい

という事は

そのものが、他のものより、より大きい

という事です

 

2つの異なるものがあり、異なると言われるだけの性質をそのものが持っている事、これを絶対と言います

 

これに対し、その2つのものを比べた関係として、そのもののある点が他方に対してこうであると言えるという事が相対という事です

 

これに対して、自己の我欲のために他者の足を引っ張りたいという人は、相対だけが唯一の実体、という解釈を作り出す観念論に傾倒します

 

すると、彼らは、

 

あるものが、他方より、より大きい

 

という事を、

 

あるものに対し、他方のものがある他方のものは、その他方に対して、より小さい

 

という正しい考え方を歪めて

 

あるものに対し、別のものが、その他方のものに対して、より小さいのだ、小さいということが実在なのだ、だからあなたの言う大きいというのは間違っている、か、あるいは、それはあなたの「感想」なのだ

 

と言ってくることをしてきます

 

これはおかしい点が2点あります
それは、

 

絶対がないこと
相対だけがあること

 

のこの2つの未証明の主張です

 

もし、「感想」という事があるのだとしたら、それはこの2つの主張がそうなのであり、「感想」とは未証明の根拠のない虚偽の主張のことです

 

普通に言う感想とは虚偽の事ではないので感想は決して「感想」などではありません

 

ここで一つのポイントは、基であるものは一つということです

 

二物を比べるなら、

 

あるものが、他方に、より大きい

 

などの結果になります
つまり、以下の様な事です

A   B
↓   ↓
大 → 小

 

A   B
↓   ↓
大 ← 小

 

これに対して、観念論者は、


A ← B


A ← B=小

「Bは、小だから、小だけがある」「Bの問題なのだから、小の他にはなにもない」

 

と論じます

 

ここでは、Aが大であり、すなわちAがBより、より大きい、という話をしているのだから、それを確認するには、

 

Aが、
Bと比べて、
どういうものとして関係しているか

 

という3つの点を調べることになります


しかし、観念論者はそれを拒否し、否定し、次のようにする事を主張すると同時に、それを結論だ、真実だ、と決定します

 

Aが、ではなく
Bだ、これが私の側だ、これと比べてあなたの側、
Aと比べて、
小だ、と関係している

 

というふうに考えてそれを主張します


こういうやり方を独断と言います

独断には根拠の証明がないので、結論は出せません

 

観念論者にかかると、議論は全て無に帰されて虚無に貶められ、議論も、社会の思想も秩序もみな、破壊されます

 

(2に続く)