現実から目をそらして自己保身に走る人

現実から目をそらす人は、白いものを白いと見ずに認めず、黒いものを黒いと見ずに認めず、その反対を主張することをしています。

 

すなわち、黒いものは一見黒に見えるがよく見ると白いところもあって、白いという新発見がある、と言い、同じく白いものは一見白いものに見えるがよく見ると黒いところもあって、黒いという新発見がある、というのです。

 

その事から彼らは、新発見をもって人を判断する新方式を始めようじゃないか、と提唱し、世に吹聴するのです。すなわち、白い人は黒いと考えよう、黒い人は白いと考えよう、と提唱するのです。

 

しかし、そのような提唱が受け入れられ、白が白であると認められない世界は、山が山であると認められず、人が人であると認められない世界です。

 

そこに山がある。それは、川だ。いや、海だ。どっちなんだ、とりあえず、山でないことにだけは決めよう。山と言ってはいけない。破れば罰則だ。

 

彼らの言い分では社会の基礎が成り立たないのです。猫をニャーと鳴くから犬なのだ、と主張してそれが通れば、もはや守られるものは何もなく、正しい理解や認識というのはなくなり、正しい行いというのも何も残りません。

 

人が困っている。ならば、困っているのだから、助けよう。

 

こうして人助けが成立するのに対し、彼らは、

 

人が困っている。ならば、困っていない。困っていないならば、助けは必要ではない。助けは必要でないならば、それは困るということがなくて困っている人に対して平等でなく、平等であることが保たれるためにはそこに困ることがあることも必要だから、困らせよう。困っている人には困らせる。これが、これからの世の中の新しい人助けだ。考え方としても困っている人と困らせるということが対応すると、完全に一致していて不純な反対のものがなくなって無駄が省けて分かりやすい。人に優しい考え方だ。

 

と言うような滅茶苦茶なことを主張するに至るのです。(古今東西個人主義哲学や科学の見解は概ね上のようなことを言ってます)

 

彼らの言い分はまた、白はもともと白であるが、これから黒に変化する可能性があると言い、黒も同様にこれから白に変化する可能性があると言い、変化する先に到達するのが何であるかによってそのものの価値や正しさを判断しようと提唱している、かのようです。

 

しかし、彼らに対して言っておきますが、本当に正しいものを知ったならそこから決して落ちることはないのです。例えば、真実の愛と呼べるものを見つけた人は、それを捨てて偽りの愛の方に戻ってみたい、久しぶりに不倫や浮気や略奪愛をやってみるか、などと思うでしょうか。

 

そういうことを思う人が仮にいたとするならば、その人は偽りの愛しか知らないで、今あるものに飽き足りず、何も失うことなく楽してさらに何かを手に入れようとしている、と言うことができるでしょう。その人は戻ったのではなく普段と同じ事をしているに過ぎません。戻るということは今のものを手放すということです。

 

そして、いくら白に向かうという方向の可能性があるからと言って、自分が黒だということを何らの引け目も持たないのであれば、白に向かってはいません。白に転ずる可能性はあってもその種を何一つ蒔くことがないので、いくら時間が経っても黒としての状態に何一つ変化はないか、むしろ、自分には白に向かう可能性があるのだとうそぶいている分、さらに黒さを増していって悪心を育てていっているのです。

 

さらには、白に向かう可能性があるということは、文字通りに受け取れば、黒であるということに他ならず、白でないだけの「罪科」を持っているということです。その「罪科」を償い清算するような心の意志がなければ、黒であることは非難の対象にしかならないでしょう。

 

結局、彼らの考えは何であるかと言うと、白が黒く「見える」、その反対側に黒いところがあるのに「気付く」、また黒に向えば黒の方に「近付く」、という事と、黒が白く「見える」、その反対側に白いところがあるのに「気付く」、また白に向えば白の方に「近付く」、という事とであり、それらを合わせて考えると、言っていることは「自分が思う」ということに他なりません。

 

目の前に白があっても黒があっても、りんごがあっても山があってもお構いなしに、「自分が思う」それだけですべてを決定してしまおう、という考えのことです。それは究極の形を言えば、「これ、ではない、それ(自分の思考)だ」という考えのことであり、もっと言えば「事実ではなく、気分だ」といっているに他ならないのです。

 

事実本位とは神経質(今で言う神経症)の治療で有名な森田正馬先生の説かれた、人の純な生き方、生の欲望を追求していく生き方の概念です。これの反対が、あらゆる一切の神経症を生み出している、思想の矛盾の考え方である気分本位ということです。

 

気分本位にすっかり染まったのが今の日本社会であると言えます。例えば、何でもかんでも「俺の気分」で話が独断で進んでいくのがSNSでの討論です。

 

誹謗中傷や詭弁を自己の手段とされる方々は、皆例外なく、気分本位に基いて、その無理な他者侵害的な生き方を正当化するために、あらゆる一切の世の知識を情報として使って悪用しているような有り様です。

 

科学の名を騙り、統計データを誇示し、さも小難しそうな理屈だけの中身のない空論の演説をでっち上げて、彼らが守ろうとしているものは「俺の気分」なのです。その自己の保身保身のどこまでも底の浅い考えに呆れるほかありません。

 

「社会の事実」それに向き合い、それを守ることができない人たちには、討論も議論もできるだけの社会的な成熟がまだ果たされていないのです。

 

そういう人たちにも、清き一票として同じ重さの投票権を与えている今の考え方こそが、事実に基づかずにそれに明確に反している気分本位の思想の矛盾なのです。

常識などないという人

常識に基づいてする話を一切受け付けない人がたまにいます。

 

 それはあなたの感想だ

 感想でないなら証拠を示せ

 

こういった反応が返ってきます。

仕方がないので

 

 あなたのそういう態度は作法に反するので、直さないと人々の信用を失いかねませんよ

 

と伝えるのですが、

 

 証拠を出してから、話はそれからです

 

と返ってきました。

 

こういう人が分かっていないのは次の2点です。

 

1 すでに確かめられている原理の知識に基づいて今の個別の問題は自ずと答えが導かれる

2 個別の答えを一々明文化する必要がない

 

このことに反する彼らの考え方は以下のようなことになります。

 

 書かれたものを示せなければ、そのような事実は存在しない

 

これは明確な理性的な視野狭窄あるいは自閉と言うべきでしょう。

 

以上を総合すると以下のようになります。

 

3 常識とは、社会が認める原理とそれによって個々の問題が解かれたという事実の知識であり、明文化されていない社会共通の(基盤的(前提))知識である

 

この常識を笑う人間はこの常識(の無視により、この常識の必要かつ妥当だったことに気付いて己の無知)に泣くのです。

 

参考として、プラトンの著作『国家(上、岩波文庫、藤沢令夫訳)』より画像引用いたします。

 



おまけ

ここから下はこの話題について最初に書いた文章です。長いのと、投稿できなかったのでボツにして書き直しましたが、原文も一応ここに貼っておきます。

 

世の中には、常識ということを持ち出すととたんに鼻で笑って否定してくる人がいたりします。

 

例えば、ネット上の作法とかエチケットを守れていないという指摘がされた場合に、そんな事はいまや誰もやっていない、と見下して嘲笑してきます。さらには、もしそれをする必要があるというなら証拠を示せ、と言ってきたりもします。

 

そういった人たちの従っている考え方は、昔から当たり前にあって信じられてきている知識の教えを「古い考え」と呼ぶ人たちの提唱してきた「新しい(流行の)考え方」です。

 

その考え方の人たちは、常識には間違ったものが多い、ど主張し、だから、と話を続け、常識を持ち出すなら正しいことの証拠を示せ、と言ってきます。

 

それはあたかもそういう考え方のできる自分は賢く、相手はそれを知らない(と決めつけている)から愚かだ、といったことを言いたげな態度に見えます。

 

しかしこの要求は、

 

常識は間違ったものが多い

だからその指摘(する常識とやらが)正しいということなら証拠を示せ

 

という論理ですから、明確に

 

その指摘は間違っている

 

と主張しています。

 

しかしそのことを口にしていなくて隠しています。そうして、相手に「主張するなら根拠を示せ」と詰め寄っていく強請り行動を行うのです。

 

 

以上の流れは明確に、相手が先に主張しているという流れです。

 

A ある指摘

B それは間違っている

  (なぜなら、常識には間違いが多い)

B 正しいなら証拠を示せ

 

ここでおかしいのはA→B→A→Bという一問一答でサイクルしていく対話になっていないで、Bの方が一度に二手行い、一人で「主張に反論する側」「主張に証拠を求める側」の二役をやっているということです。

 

そこに足りないのはAがBに証拠を求めるターンです。それを「上書き」するように、BがAに証拠を求めるターンがくっつけられています。

 

また、そもそも主張は根拠に基づいて行われない、ということはありません。相手から根拠は?と問われる場合は必ずその人は言い逃れをしているだけの場合であり、主張はしていなくて、主張できるような客観的な事実は何一つ持ってはいないのです。

 

主張   ◯◯である

 

反論   △△であるから

     ◯◯ではありえない

 

言い逃れ ◯◯(という他者の主張は)

     〜だからダメだ

     (単なる貶め、矮小化、攻撃)

 

 

ここで二人がまず問うて明らかにすべきは、その「ある指摘」が、「多く見られる間違った常識の中の一つであること」、を示すことです。

「ある指摘」が間違いである点を示し、では何が本当は正しいのか、その知っている正しい点を示す必要があるのです。

何が正しいかを知らずに、何かを間違っていると指摘することはできません。 

 

ここで相手には2つの流れの分岐が生じます。

 

一つは、上記の証明がなされた時には、「ある指摘」は間違っていることが示されたことになります。その場合、「ある指摘」が正しい証拠はなく、それを示す必要もありません。

 

一つは、上記の証明がなされなかった時には、「ある指摘」は間違っていることは示されていません。その場合は、相手から要求できる正しさの証拠というのはありません。間違っていると指摘していないなら、何の反論もないはずです。

 

以上から、BがAに対して証拠を求めるという必要は現実には生じ得ないということが分かったことになります。

 

ここでは、Aは「ある主張」の根拠を常識にとり、常識に基づいて発言しています。常識とは、すでに確かめられた事実と、そこから直ちに導かれる必然の帰結を含めたものを表しています。

 

例えば、人にやさしくしなさいと言えば、「妹に優しくする」ということは当然すぐに導かれて誰でも分かることです。ここに「妹は人と同じではない。妹は画数が8であるが、人は画数は2だ」とか言って言い訳または言いがかりをつけていくのが、この記事で問題となっている常識を否定する人の考え方です。

 

その人達は平然と「人に優しくすることは、妹に優しくすることと同じことか?」と、自分が疑問なら自分が考えるべきことを、そのステップを素通りしていきなり相手に「問い詰める」のです。

 

それはそのまま、その人の考えが「自分ではそのようなおかしなことを疑問とは思わない、それをお前に問うから面白いのだ」というようなことであることの表明に等しいものです。

 

えてしてこういった方々は、自分には問うことのない責任を他者に問い、他者を苦しめることが目的でSNSにいるわけです。

 

話を戻すと、そもそもAの指摘は社会で正しいと理解されているからこそ常識となりその様に理解されているものに従ったもの、であるわけですから、それに対して間違っていると主張するなら、その主張者が証明をなさねばなりません。

 

しかし往々にして彼らは、自分の否定者は眼の前の相手、指摘者だけであり、指摘舎個人が自分の「感想」を述べてきているだけだというふうに無理に解釈して空想からそれを信じ切るという手段でこの嬉々を押し切って逃げ切ろうとしているだけです。それは単なる現実逃避の自己保身です。

 

これは、例えばタバコの害、ポルノの害、ワクチンの害、などにおいても同様のことが言えます。

 

例えばポルノの害であれば、ポルノのどこに問題があるのか根拠を示せ、という場合、すでに社会で行われている各種の規制がある事実から、ポルノに問題はないという主張は社会常識に反しており、常識に反することの方が正しいという証明が必要なのです。その証明はまずできないでしょう。もしできたとしたならば、ポルノに害があるということは事実でないということですから、当然その証明はできません。いずれにせよ、ポルノに害がある根拠を示せ、と問う場面は現実にはありえないのです。ですから、彼らがそのような問い詰めで迫る場面というのは、もはやコントでしかありません。

 

ワクチンについても一言しておきます。

ワクチンに害があるというなら証拠を示せ、とワクチンを賛美している方々は言われますが、コロナワクチンというのは異例の間に合わせの登場となったわけであり、通常の西洋医学の手続きで言えば、見切り発車で到底認めうるものでない、という証言が知られています。それに従えば、ワクチンの安全性については、社会常識に反しているのがワクチン推進あるいは使用ということなので、安全であることの証明の必要があります。それに対して彼らの言うことは、多くの人の命が救われた、であり、問いに対する答えつまり安全性の証明にはなっていません。

 

いずれにせよ、あることの正しさあるいはあることの決定は、今の対象を見て決めるものではありません。プラトンも国家という著作に書いているように、すでに成立している基盤となる知識や事実に基づいてそれに従って、今の問題の答えが導かれる、ということです。

 

例えばそれは、水は沸騰するから液体は沸騰する、と分かり、油やエタノールも沸騰すると分かる、というようなことです。

 

これは先例に従うのではなく、あらゆる事例が液体の本質の原理あるいは法則に従うということで、その原理法則から切り離された個々の液体の現象というのはない、ということです。

 

それを今の時代の裁判などでは、先例を引いてきては、今の問題を削ったりくっつけたりして同じ形にすることが、今の問題に正解を出すこと、だと最高裁の裁判長ですら考えているような人がいるらしいということです。

 

それは、カボチャの種を蒔くとカボチャらしい芽が出て茎が伸び葉が出るので、それらを一々先例のナスビと同じに見えるように切り貼りし、できた実を紫に塗ったりすることが「カボチャの実を刈り取る」ことだと勘違いしたような考え方です。

 

ナスビの種を蒔いて育てると実がなったから、カボチャの種を蒔いても同じように実がなるだろう、ということの、原因と結果の部分を取り違えているのです。

 

野菜の原理が、その種から実がなるということをいわば支配しています。

 

常識などないという人は、原理などないと言って、ナスビの先例がカボチャを支配しているのだと声高らかに主張しているようなことでしかないのです。

 

別の例えで言えば、掛け算の問題を解くには、その数式を眺めていることやいじることで解決するのではなく、足し算の原理を思い出して用いることで解決されるということです。

 

2 × 3 =

 

2 + 2 + 2 =

 

6

 

ここで、足し算の知識というのがいわば算数あるいは計算などの算術の世界における常識ということの一つに当たるでしょう。

 

しかし彼らは次のように言うでしょう。

足し算なんか知らない、それはあなたの感想だ、ここには掛け算の問題しかない、勝手に足し算の話を持ち出すな、足し算が掛け算の問題に関係あるというならその証拠を示せ。

 

そこで、計算問題なら上の足し算部分の式を見せれば証拠となるかも知れませんが、それをすると彼らは大抵次のように反応します。

 

「それで、足し算で解けてよかったですね。それは掛け算の答えとたまたま一致しただけでしょう。足し算がしたかったあなたの気持ちは分かりました。しかしあなたは掛け算を私の指定した掛け算のやり方で解けていません。あなたは私が求めたことを何ひとつできていないのです。」

 

これは、すでに確立してある原理を指す「ある常識」からその原理を思い出すことで、今の問題の答えを導くという事実について、それを否定して、今の問題の答えは今の問題の中から導き出さなければならない、と主張していることになります。つまり、原理の知識は使用禁止であり、常識は使用禁止という条件に従うことを求めるということです。

 

そういう要求によって、知識に従って答えが導かれる、という事実が、何の根拠もなく相手の突き出す条件に従って答えを導け、という命令に置き換えられ、この世の道理にかなうことが問題解決であるということが彼らのマイルールにかなうことが彼らの問題解決である、ということに話が矮小化され個人化され閉鎖化されて、完全に話がすり替えられています。これではいかなる問題も解くことはできないでしょう。

 

常識とは、社会に蓄積された確かめられた原理についての知識の集大成のことだと言ってよいでしょう。それを否定する人はひとえに原理とそれへの知的なアクセスを否定禁止することで、己の我欲の悪事のために人々が信頼して依拠するなくてはならないものを無に帰すような言論をして人々を欺いている人だと言えます。

 

そういう人に、あなたは社会で信用されないでしょう、と常識に基づいた指摘をしても、彼らは「はい、お気持ち論です。ありがとうございました。」と返してきては、自分たちが賢いというポーズを誇示し、こちらを見下して嘲笑するわけですが、当然その主張には根拠がなく、また根拠となるような客観的事実はありえないこともはじめから分かっている話です。

 

彼らは常に、その場の中に視野を限定し、その場が生じている母体である社会やその社会の常識に一切触れさせません。

 

そのうえで、他者からの指摘には「私はそんな事は言ってない」「どこで言ったか引用して示せ」と返しさえすれば反論が終わったと信じているさまは裸の王様ということです。

 

例えば、人に暴力をふるったことで「いじめは止めなさい」と言われれば、「私はいじめなんてことは言ってない」「いつ言ったか証明せよ」と返してくる人がいたりします。

 

その人に対して言いたいことは、知識とは理解の基盤であり、その上で今の物事がはかられていくものだということで、「常識」に照らさずして判定が下るということは一つとしてないということと、「常識に照らす」ことが知識を導き、知識がある人を賢いというのであれば、それを否定することは賢さの対極にある、と言えるということです。

性産業を肯定する論文についての反論

ある軽度知的障害女性の性産業従事者についての「肯定的論文」への反論

 

批判対象の論文

[研究ノート]
反抑圧アプローチの視点から迫る軽度知的障害女性の性産業従事
―当事者の語りから従来の言説の捉え直しへ―
武子 愛
(Ai TakeshiTakeshi)
児島 亜紀子
(Akiko KojimaKojima)


反論

まず、社会の普通の職業・就労と性産業ということ・就労を同列に扱うことに根拠が無い。
論文の著者は、従来の研究では性産業に関わる女性は性的な搾取を受けているなど犠牲者としてとらえられてきたと言うが、そこからどうして犠牲者があるという事実があってはならないのか、犠牲者を”主体的な存在”へと意味を付け変えていこうとしなければならないのか、そのことの理由がいるが、一切暗黙の前提としてそうすることが研究に新しい地平を開拓すると言ったような気分的な空想が語られているに過ぎない。

 

性的な搾取があるからこそ、女性は「身売り」に等しい行為を労働・職務として携わらせられている。そういった歴史的な事実が女性への性的搾取の存在であり、その事実の存在である。そこで犠牲者ではないのだと主張するならば、歴史的に女性への性的搾取犠牲者はなかったのかと著者らに問いたい。著者らは、その問いに「女性への性的搾取はなかった、そのような歴史的事実はない、彼女たちは”主体的存在”だったからそこには犠牲者はいないのだ」と回答できるのだろうか。

 

第二に、彼女らは性産業において褒められ認められ主体的に「社会的成功体験」を経験するという「活躍」をできたのではない。
彼女らの体験は、社会的成功体験であると確言できるか。

 

性産業とはどういう物かを考えてみる。

それは、女性が自らの体を差し出し、見ず知らずの男性によって本来伴侶であるべき二人が行う生殖行為を”労働”として差し出すことである。

そこでは女性は身体を投げ出し、明け渡し、心を殺し、何も感じないようにして、男性が「交わってくる」のを「黙って受け流していればいい」ということである。そういう”労働”が一般社会の労働に対して「敷居が低い」ことになり、知的能力に障害を抱えていても問題なく扱われるということは、ひとえに社会的能力を求められていない”職場”である、と言えることにある。

 

それは、体を差し出して男性が「終わる」のを「待っていれ」ばいい、というだけの仕事を求められる。当然女性は手持ちぶたさである。人懐っこさあるいは人に良くしたいという意欲があれば、そこに自主性が生じてくるのは自然の摂理である。すこしでも「お客さん」にいい気分になって帰ってもらおうとすることは、その本質的に自らを犠牲にして終了を「待っている」だけの仕事において、やりがいや励みになっていくのは理解できる事である。

 

ましてや、そういう社会に顔向けできないような”労働”環境であれば、そこの経営者は、女性が自らの体を見知らぬ男性に差し出すという”業務”を快く引き受けてくれる就労者をそうそう得られるものではないことは分かっている。それゆえにそういう経営者は性産業従事者の女性を、「ねんごろに扱う」ことをすることは想像に難くない。褒めたり、励みを与えたりするであろう。そして、社会的な創造的知的能力を彼女らに求める必要がないのだから、そういうことの不備や障害を問題にすることもないであろう。

 

そうやって得られる彼女らの非社会的で私的な慰み・心に受けた傷の癒しの類は、すべてが廃絶すべき女性の性搾取のお盆の上で展開している事柄に過ぎない。


引用

外の世界で暴力に晒されてシェルターに入ったA さんやB さんにとっては、施設は外の世界よりずっと安全で安心できる空間だったかもしれないが、その一方で行動の自由は制限されていた。B さんは集団生活ゆえに入浴の時間が自由でないことを語っており、A さんは外出がままならないことを[刑務所のよう]だったと表現している。ヤングのいうとおり「他者が享受するような権利や自由」が剥奪されていた状態にあったわけだが、支援者たちとの関係が良好であったために、彼女たちはそれらのことを抑圧と感じている様子はなかった。また、ヤングは福祉の対象者にシェルターや食べ物が与えられ、快適な暮らしが提供されたとしても、抑圧的であることに変わりはなく、その抑圧は「社会的な身の置き場のなさ、退屈、自尊心の欠如といった形で残存する」(Young 1990 =2020 78) と述べている。ヤングは福祉利用者が施設を出たあと、福祉の対象者に向けられる眼差しも抑圧として捉える。施設を退所したあと、一般的な就労を経験しているA さんは、知的障害者であることを面接で告げると性産業以外の場所では採用されないと言い、「社会的な身の置き場のなさ」について語っていた。


反論やコメント

性産業への従事によって、彼女らに与えられた一時の安堵の安らぎは、彼女たちに無理が大きい社会的知的能力(計算能力など)を求められないその環境・労働条件にあり、その労働条件の名こそが「女性への性的搾取」である。
彼女たちは論文の後半に筆者ら自身が書いているように、性産業を職業としてを”選択”したのではなく、「それしかなかった」という健常者社会の福祉の至らなさの現実に足元を見られたという苦肉の策に他ならない。


引用

通常、知的障害のある人たちはどこにいても、補助的業務につき、誰かの命令のもとに仕事を進める。福祉的就労以外の、障害に配慮されない現場ではなおのことで、仕事ができなければ周りの人たちから注意されるし、なんとかこなせても褒められることはない。性産業従事は、彼女たちにとってそのような周辺化・無力化される場所から離脱する、制限された選択肢からの選択であった。しかし、彼女たちは性産業の現場でコミュニケーション能力を磨き、自ら危険を回避するための交渉力を持って「抵抗」していた。このことは彼女たちのレジリエンスと捉えることができる。

 

反論やコメント

性産業において身に付くスキルとは、(広義の)公人(つまり見知らぬ人の意)に対してもてなしをしたり、心理的な「おもり」「あやし」をしたりするという、主に気分の面倒を見るという精神的世話のことである。これは通常は水商売と言われる職業において行われている”サービス”と本質は同等のものであろう。私はこのようなスキルを身につけることは、決してこの社会において経験される普通の意味での社会的成功体験とは程遠い、個人的・私的な強制的義務体験であると言えると思う。早い話が「性的に締まりのないだらしない大人たちのお守り役」である。そのような非社会的な役割を女性が求められることこそが、この現代における倒錯した一大ハラスメントであると指摘する。

 

引用

AOP の立場からいえることは、支援者はこれまで述べてきたような知的障害者を取り巻く抑圧の複雑さを注視し、これ以上抑圧を再生産しないような支援関係を模索するとともに、なぜ彼女たちが性産業を選択しそこにとどまるのか、その理由と構造を的確に理解することが重要だということである。本研究の対象は2 名のみであるが、彼女たちの語りから、いわゆる一般社会が軽度の知的障害がある彼女たちを周辺化・無力化する場であることが浮かび上がってきた。一般社会において、自己肯定感の低下を始めとするさまざまな困難に直面してきた彼女たちにとって、性産業が重要な受け皿になっていたことが確認できた。

(注)AOPとは
反抑圧アプローチという手法を用いるソーシャルワーク理論のこと。
フェミニズムや反人種主義、マルクス主義ポスト構造主義といった多くの批判理論が切り結ぶまさにその地点に誕生したソーシャルワークのアプローチであるといいうる」
AOP の究極の目標は、非抑圧的な人間関係及び社会の創造であるとされる」
とのことである。


反論やコメント

後半部分が社会の重要な解決問題であることには異論はない。しかし前半は大いに問題のある記述であると思う。
それは以下にさらに引用をし、まとめて私の意見を記述する。

 

引用

ここまでの分析の結果、軽度の知的障害がある彼女たちにとって、性産業は抑圧に対して抵抗することができ、主体的な行動を発揮しやすい場所であることが明らかになった。本人たちにとっては、それだけ他の場所は主体性を発揮しにくく、周辺化・無力化されやすい場所であり、そのことに比して性産業の現場は彼女らが生き延びるための抵抗をしやすい場所であることがうかがわれた。周辺化・無力化は知的障害者であると同時に女性であるという、インターセクショナリティに基づく特有の困難と関わっていると考えられた。

AOP の主張する社会変革とは、性産業をワーカーたちが働きやすいような場に改善することだけを目指すものではない。彼女たちから、彼女たち自身が主体的な行動力を発揮しやすい性産業という就労の場所を奪い、代わりに周辺化・無力化される就労へと向かわせるのでもない。知的障害のある女性たちが周辺化・無力化されない就労の場の創設を目指す努力が市民社会の側にも、そして政治にも求められよう。

(注)
周辺化とは
 肉体的あるいは知的障害など社会的生活を困難にする一部の属性的条件を持った人々が置かれている、社会の労働市場から排除されて行き場の失われている状況のこと。

 

無力化とは
 自らが決定権を持つことが不当に剥奪されるという状況にある人々の置かれている状態のこと。


反論やコメント

問題は、筆者らの驚くべき見解・主張に見られる”いかに性産業を彼女ら従事者に働きやすくするか”といったようなことではなく、いかに社会という労働の受け皿の方に、彼女たちのような障害のある境遇を受け入れ、社会参加を促していくかの形を付けることであるはずである。彼女たちの”主体性”だとか、受け皿のない公的環境の方がそのまま放置された中での”彼女たちが<気持ち良く>選ぶ・選ばない”といった気分上の解釈をつけることや、社会環境に対する個人の内部での意味の付け替えによる観念上での解決の問題ではない。その点でこの論文筆者たちの考えていることの暗黙の前提にある考え方は、何らの客観的根拠のない間違った観念上の空想であり観念の遊戯である。それは、社会的な受け皿に対して何のアプローチもできないで、また、していない、役に立たない考えのら列された徒労の議論でしかない空想論に過ぎないと、その大部分の主張については思われる。

 

(最後のくだりにやや強い表現がございますが、あくまで思想や理論的思考に対する指摘であり、著者の方の人格を否定するものではないことをお伝えさせていただきます)

議論ができない悲しい人

ネットのSNSの世界には、議論ができず対話というものがどういうものであるかを知らない人が過半数以上を占めていると思われるところがあります。

 

そういった人たちの特徴は、まず相手の言ったことを相手の思想でありその発表であるということを理解していないということがあると思います。

 

彼らは他者の思想すなわち考えを聞いてそれを理解する事から始めるのではなく、自分の考えに対してその相手の考えが自分と同じであるかテストをして、それによって他者を値踏みすることにしか関心がありません。

 

自分が気に食わない相手より上であるか、そうでないならいかにして蹴落とすか、の二択の思考しかないのです。

 

そのテストは、自分の信じたい「権威」に相手も自分同様かしづいて賞賛しているかを確かめるということです。

つまりは、盲従する対象の一致不一致それだけを問題にして他者の価値を決めつけているだけなのが彼らです。

 

もしそういったすがりついている権威が一致するならその相手からは反論されることがないので気分良く二人して賛美を熱く語り合い始めるだけです。

 

それはいわゆる不毛で傍から見ていてどこか受け付けられない、社会の一般水準と感覚や認知のあり方が違いすぎるオタクたちの会話のような閉鎖された社会の良識や常識に反することを肯定している世界です。

 

もしそこが不一致なら徹底的に揚げ足取りを仕掛けては嫌がらせの誹謗中傷をして相手を痛めつけてやり込めにかかり、あわよくば相手を自分の目の届く範囲から排除しようとします

 

そういった人たちは悲しいかな、他者の考えを知って自分にそれを照らし合わせて自分を見つめ直し自分を豊かにしていくということができません。

 

彼らにはあらかじめ、あらゆる議論や対話の前からすでに自分がこれから先いかなる時でも何を信じ何を否定するかの問答の回答の一式がすでに用意されて決定してあり、その決定だけは決して変更しないと固く誓って心に決めているのです。

 

それは言葉を変えて言えば、自分が問題指摘を受けざるを得ないその幼稚な思考を、ありとあらゆる社会の観察から完全に正当化する論法を寄せ集めて装備している、といういわゆる古今東西の詭弁者を手本にした論理武装のことです。

 

ですから、その自己正当化マニュアルである自分の決定と異なる意見が社会になされれば、彼らはスイッチの入った録音機械のように反応し誹謗中傷を仕掛け始めます。

 

それは一種の連鎖反応であり、一般人の仮面の下に隠していた共通の因子が次々に作動してくるような、悪しき心の連鎖反応です。

 

それが始まると、他者の意見は誰のものであろうとおかまいなしに、その場に集まってきた彼らによって集団的にその場から一切排除されることになります。

 

彼らの思考は、自分と違う考えはあってはならない認めてはならない、という思考です。

 

それは自分が周囲と同化していないで他と区別されることは自分の中身や実力が問われ始めることの出発点となるので、そういう地点にだけは決して立とうとはしないという動機に基づいています。

 

その考えの本質は、社会の活動の入口に対し背を向けて、正当な方法以外の手段で社会の中にある価値や立場に自分が立っているという空想を満足させたいという考えであるということに他ならないでしょう。

 

そういう子供じみた夢を守るために、現実の社会に立って切磋琢磨し他者と向き合い意見交流している人を邪魔に思い、痛めつけることで非現実の決して現実に結びつくことのない夢を守ることになると甘えたことを思っているのです。

 

そういう人たちと話をしても何の知的交流も起こりません。彼らは他者に対して向き合ってもおらず心も開いていません。

 

例えば、赤ちゃんの周りには天使がいてその赤ちゃんと対話しているという想像のイメージがあります。

彼らの周りには一体の天使も妖精の類も存在せず、祝福された存在の一切に遠ざかられて避けられているという想像のイメージが湧いてきます。

 

彼らの揚げ足取りは相手の考えを認めないので、相手の考えがあることを前提にした話ができません。

それで相手か何を言ってきても、直前のこちらの話と混み合っておらず話の論理が飛躍していてつながりがまるでないのです。

 

嘆かわしいことです。

 

彼らのマイルールが通用する世界は、秩序を守ることを放棄した杜撰な管理体制のSNSにしか残されていないと言えるでしょう。

 

そのSNSは間もなく法改正により、そういった誹謗中傷を放置できない対処義務が与えられることになります。

彼らはその時、沈みゆく無法地帯のツイッター大陸とともに沈んで淘汰される運命にあるのです。代わりに浮上してくるのが次の時代の舞台となる新しいSNSの大陸でしょう。

元気を出す方法

それはズバリ、好きなことをすることです。

 

したいと思いつつ先延ばしにする延滞が気持ちにロスを作り出します。

 

読書する、家庭菜園をする、など、思い立ったが吉日ですぐに行動するのが王道です。

 

したいことがない、何がしたいか分からない、という方は、すでに理由のない他者への忖度の習慣が固定されていて、それがあたかも生き方であるかのように錯覚しておられると思います。

 

しかし生き方とは息をしてナンボの世界です。この星の一つの細胞が我々ならば、その細胞は行動することが息をすることに当たるのです。

 

たくさん行動し、行動するからには無理のないようにすること、気持ちに本心とズレのあるロス部分を作らないこと、それが大事ですね。

 

時には休むことも行動とセットで必要なことでもあります。

行動する自分と休む自分の二人の役者が交互に舞台に出ているのが自分の人生だと考えると、一人で働き続けることが無理な展開であることに気づけると思います。