誰を信じられるかの問題

一般に信じていい人の特徴はあり、はっきりしています

 

あなたの問いかけにきちんと向き合ってくれる人

 

あなたのどんな小さな声も取り上げてくれて、その声に気付いてくれる人


この反対が、絶対に信じてはならない人です。

 

あなたの問いかけを遮り、自分の問いかけがここでの議論だとする人

 

あなたの声を無視し、否定し、隠してきたり、ないことにしたり、抑えつけたり、嘲笑ったり、踏みにじったりする人


後者の人はどれだけ自己弁護して、「私も身を切る思いでやっているんだ、分からないかなぁ」などと言おうが、むしろそれを言う事(「分からないのかなぁ」)が自己中心な他責なのであり、その自己弁護こそが相手の声を遮るため、退けるための手管の一つに過ぎないのです

 

そういう人たちは上辺では悲しい難しい顔を作ってはいますが、心の底では自分の支配がこれでまた上手くいくだろう、周りはこの手でまたコロっと騙されるだろう、と喜んで大笑いで叫びたいくらいにほくそ笑んでいるのです


そういう人たちは心の内実がそういう人たちですから、目が汚く、目元は嫌らしい下心でにやけていて、傍目からはいつもそれが丸見えなのに、自分では気付いていないのです


そういった人たちとは速やかに縁を切り、離れるのが正解です

 

また、そういう人たちに理解を示す(つまりこれは他者侵害に共鳴するという事)人たちというのもその人と一枚岩ですからそこに区別はなく、その一団から離れる事になりますが、それがいいのです


それによって大きな生活の範囲を失ったと思うかもしれませんが、むしろ大きな創造や成長の機会と可能性の自由を勝ち取った事なのです


結局、悪のはびこる場所から追い出されるべきは悪であり善の側ではありません

 

なぜかというと、「はびこる」とは寄生する事であり、侵略する事だからです。自分の家に住む事を誰もはびこるとは言いません


そして、人が集まる事で主流となった土地は、そこから悪が追い出されないなら、それは悪縁の生きる場所であり、善の場所ではないと言えます


すると、その悪のいられる場所というのは、地獄という名前がつくという事であり、それが歴史の事実です

 

そうやって世界は善の住む場所と悪の住む場所が完全に分かれています


一方に一方が迷い込む事で、迷い込んだ者が外に追い返されますが、結局他に迷い込む者は悪なのです。上で述べたように、悪とは侵略し、侵害するという事です


そして善とは、あるべき場所にあってその事に動きがないという事です。これを運動がないから変だと言う人がいたりして大変知識人ぶるのですが、そういった人たちはその発言で、侵略がなければ生きられないと自己表明をしたに過ぎません


正しい人は、正しい位置にあって動きません。それを、動いてくれる人が良い人なのだというような詭弁がなされたりします。しかしそれは悪がそこを取りたいから善はここから自分から出ていってくれと厚顔無恥の要求を平然とする事に他なりません

 

そういう自己中心の観念論がはびこるのが、悪の侵入してきている今の日本社会なのです