価値ある議論とは

ある人を見て思う。


その人は議論において、いつまでもあいまいに自分の立場・主張を明言することを避ける態度を取り続け、同じことをいつまでも議論していたずらに長引かせている。


世の中を見渡し、人類の「哲学・科学」の歴史を見れば、今でも大昔に始まった「ニワトリかタマゴか」の議論をやっている。


その人の議論とは、決して議論を後退させる議論ではないけれども、議論を前進させる議論でもなく、常に横ばいの議論を続けておられる。


そこに私は知性を感じない。


知性とは、理性に従う時に生じてくる命の輝きのようなことである。
もし、理性に従うことすらなければ、知性は死の闇のようにどんよりと曇り、どす黒い気味悪さを漂わせるだけであるか、偽りの光を作り出してそれで世界を自分の考えの一色に染めて、他者の持つ色をその光の色で抑えつけて否定しているだけである。


総括すると、価値のある議論とは、唯一前に進む議論だけであり、後ろに下がる議論が価値がないのは必然として、横ばいの議論にも価値がないとするのが当然である、と思う。


しかし、デカルトはこれを歪めて、


”私が真と見做すような、私から疑いをかけることが不可能であるような私を行動不能に陥らせる対象でない限り、それは確実な真ではなく、そうであれば不確実な偽であると見做す”


という風に考えを表明している。これは完全な誤謬である。


なぜなら、「私」が(真であると)思うことに一致するなら認めるが、「私」が(真であると)思うことに一致しないなら認めない、という態度を表明しているからである。それは理法に従うことではなく、方法を作ってそれだけを通し、それだけを使う、ことだけを自分が認める、という他者と社会を顧みない反逆的で独善的な独断の考え・態度であるからである。


その態度から、善であってもそれが社会に適用されることに抵抗し妨害しているのが今の民主主義社会・議会政治制度の信奉者とその中では野放しにならざるを得ない表現の自由戦士ネトウヨなどの実行者であるような真理への反逆者たちである。


しかし事実を言うと、その一人を除いた全員が抵抗を示しても、善であり正義であり真理であるものは、社会に適用されるのでなければならない。


このことに反するデカルト的な個人主義思想(である観念論)の考え・態度は、紛いもなく、善を破壊するという悪の考え・態度である。