性的侵害表現を「見たくない権利」「表現できる権利」の嘘

見たくない権利というのはおかしい。

また、何でも表現できる権利という意味解釈での表現の自由というのもおかしい。

 

社会では、人々に尊厳を尊重される権利があることを認めるのであって、人々が尊厳を侵害されることが権利侵害なのである。

 

見たくないという事態は、権利がある話なのではなく権利侵害を受けているという話である。

 

 

ここに相対主義という観念論の嘘がある。侵害することがマイナスの害であり、それを取り除き修正することでニュートラルに戻るという話を、ニュートラルに対してそれを不服をいい文句をつけるプラスの害があり、それがなければ問題ないんだということにされている。

 

つまり、性産業やポルノや萌え絵漫画を作る側に侵害行為があり侵害思想があるのに、アベコベにそれを嫌い迷惑をかけられている側に問題行動や問題思想があるかのように話が作り変えられて言われる事が、侵害者側から行われている。

 

簡単に言えば、普通の身長の人に対してその人が背が低いという話を、その背の低い人が自分を普通として規準化し、それに対して普通の身長の人が背が高いとし、そのことが問題だと言うことをする、という観念内の意味の付け替えの詭弁である。

 

そういう詭弁的な手口の常套句が「燃やされた」である。その発想で行けば、ゴミステーションに出されたゴミは「奪われていく」のであり、店での買い物は皆、客に「身代と引き換えに物を取り上げられる」のであり、本を読むことは、紙に印刷した文章を他人に「覗き見られる」ことであることになる。

 

 

話を戻すと、見たくないのが訴えたいことなのではなく、目をそらしたい様な、人あるいは特定の性別の人を貶める思想に触れたくないし、そのような思想があってはならないで、人の尊厳を認めて守るべき、という事が訴えたいことである。

 

見たくないということは、その人が言うわがままの部分であると見做して、それに保護される権利がある、というふうに考えることをする事が、下手をすると裁判官の間ですら常態のようになされている現実があり、完全に社会思想が悪思想に汚染されている。

 

以上を最も簡単に言うと、問題あるのはポルノ萌え絵の側であって、それを「見たくない」という思いにさせられる側ではない。

 

青年向け雑誌をコンビニで販売をやめることは、社会的にまかり通るようにされている侵害に「ノー」を言うことであり、それを誰にも許させないということで、差別の横行することを許す余地がある不備ある社会思想に対する修正の意思表明である。

 

そのように社会的に侵害がまかり通るようにされたのはそれもやはり、観念論による詭弁の手口、意味の付け替えという手口による。

 

女性が男性の持つ「種」を受ける「畑」である、という事実を、男性の侵略を尊ぶのがその侵略を受ける女性の役目、というふうに話を捻じ曲げて社会的な文脈の中に組み込んできた歴史による。

 

そういう逸脱は要するにゾーニングを破ることを善いこと価値があることとするような考えが世にまかり通るように慣らされたことにある。

 

例えば、知識人やセレブ階級でやっているような、性的露出の逸脱が混ぜ込まれる芸術の世界やファッションショーや晴れの舞台の衣装のような時折のゾーニングの破壊行為、人を食ったような破天荒な表現や振る舞い、その社会で当然に信じられ認められている価値の破壊行為などを、善いとか新しいと尊ぶような中身のない裸の王様の悪習である。

 

その手口は、嘘をつき、それが横行する状態を作り、それを社会の普通だとする嘘の前例という考えを作り、その嘘の方が実ははじめからある誠だったのだと人々を洗脳する、という手口である。

 

今の民主主義信仰は、戦後に行われたそういう嘘の詭弁の手口で形作られたものである。

 

児童を性的に道具と見做す人間を、男尊女卑社会が隠れ蓑となって彼らの悪行が行いやすくなって彼らを「生きやすくしている」社会は、それ以前に個人の気分や決定が第一だとする民主主義という悪の主義思想が隠れ蓑としてその悪習を保ちやすくして「生き残りやすくしている」のである。

 

根本の所に悪が寄生しているのが、今の社会や国家である。その寄生する悪を取り除いて悪があるべき場所に戻して、善があるべき場所に善を取り戻して、悪の侵入という「ゾーニングの破壊」に対処せねばならないのである。