かわいいという感覚と支配欲

男尊女卑の男性とは、か弱い女性を守りたいから、お前は俺より低学歴、低収入、低才能でいろ、という要求をする人の事です。


それは、東大生の女性が合コンなどで自分の身分(学歴)を明かしたがらないことから分かるように、悪意がなくてもこの国に生まれ育つ事で自覚のないままにその社会の空気に忖度して陥ってしまうのが男尊女卑であり、男尊女卑は社会にはびこる悪思想が生み出した集団幻想であるという事です。


社会にはびこる個人思想が、男性を男尊女卑に洗脳し、男尊女卑に染まった男性が、女性を男尊女卑で洗脳する事で始めて女性の被害が生じる、という二重の悪の洗脳手口です。
悪の親玉は観念論(=相対主義懐疑主義)の個人主義思想とその流布者なのです。


そう結論するに至った過程を説明します。


ある本を読んでいて、かわいいという言葉について、児童への性犯罪者が言うかわいいには違和感を感じるという問題提起がなされていました。


辞書には、かわいいの語には、小さくて弱いさま、という趣旨のことが載っています。しかし私は、絶対的に社会のものとして、そのものがいまだ発達の途中の段階にあり、社会における成人などの成員や成体として見做せないもの、として考えられていると思います。


つまり、自分より小さく弱く比較的に劣っている、というのではなくて、自分がその観点においては成体にまで達しているのに、相手はそうではない、という社会的な判定が行われた事を表すと思います。自分を基準にした相手の発達の程度の比較ではなく、成体という理念的な状態を規準にした未熟体との判定を行っている、のです。


この理念的というのは、目で見る物質ではないという事です。そうであるから、肉体の計量によって測られるようなものでは初めからないのです。


そこで、萌え絵の様な、この様なギミックの肉体的視覚的表現を入れればそれが幼さを表す記号となって「性的メタファー」となってその絵のキャラクターを萌え絵のキャラクターにする、という考え方は一大虚妄なのです。


また、それを知っているからこそ、幼女にしか見えない背丈や肢体の少女のキャラクターを18歳だから性行為表現も合法だ、というような奇怪な脱法行為が行われたりするのです。


では、誤った女性認識とはどういうものでしょうか。それは、小さく、弱い、か弱いから、守ってやらねばならない、という考え、であると思います。小さい、弱い、あるいはだから劣っている、というのは、事実であると言えるでしょう。

 

問題は、だから自分が守ってやらねば、という一種の恐怖心の歪んだ偽善のような考えがそこに結びつくというより、取り憑いて侵入侵害をするということです。

そもそも、かわいいというのは、小さく弱く発達が途上にあって先で成体となる段階がある、という事実を見守るような気持ちのことであれば、それは社会共通のものであり、絶対的で社会性の認識のことであるはずです。それはいかなる個人的な感情でもなければ、個人的な欲望(の満足)の事でもないのです。

例えで言えば、男女という性の分化の区別の関係は、靴の左右がある、というようなものの事です。

 

右足につけるのにとって、右の靴は優れ、左の靴は劣る。
左足につけるのにとって、左の靴は優れ、右の靴は劣る。

 

まずこれは、右足につける、左足につける、という事が本題です。そのうえで、左右あるそれぞれの足につけるのに、どちらの靴が最適か、という話であり、靴の片側が反対側より靴として優れているという事ではありません。そこがまず男尊女卑や女尊男卑の考え方の誤解です。


それから、右足につける優秀さがないから、右の靴が左の靴にその劣っている部分に優秀さを教えてあげる、与えてあげる、というのが、男尊女卑の考え方です。

 

当然、左足に合うという優秀さを左の靴が右の靴に与えようとするなら、それも逆の間違った考え方であり、差別思想でしょう。

 

いずれにしろ、守るということは個人である男性の側から女性の側に、あるいは、個人である女性の側から男性の側に、何かをする事、ではないのです。社会という絶対の一のものから、一方は一方のために自らが動かなくてはならないのです。


すなわち、右の靴は右の足に履かれなければならないしそれが右の靴のするべきはずの事なのです。左の靴は左の足に履かれなれけばならないのが、左の靴のするべきはずの事なのです。


決して右の靴が左の靴に、何かをしてやり、命令をしてやり、なにかに従わせて何かをやらせる、という事ではないのです。その逆も然りで、左の靴は右の靴に何かをやらせる、という事ではないのです。


ここで一つの場面を考えてみたいと思います。

男性が女性の前にいきなり現れて、「私」があなたを守ってやると申し出たらどうなるでしょうか?


これは女性の側からすれば、なぜ自分が「あなた」に守ってもらわなければならないのか、という疑問になります。理由もないのに、「あなた」という個人が現れて、自分が守られなければならないのか。


このおかしな申し出をまだ自我の定まっていない女児が大人の男からされる事になると、女児は「あなた」のために「わたし」は創られた、という様なその男にとって都合の良いだけの幻想に「洗脳」されていく方向に流されていく事にさせられてしまう事になるでしょう。

 

そうなると、一度「無縁(無関係)の壁」を超えることを許してしまった後は、その男の求める欲望は濁流のように押し寄せてくる事になります。

 

さらにはその男は事前に「断る理由があるなら言え。示せる証拠がないなら言うな」というような理屈での脅しを優しげな言葉に偽装して親切であるかのように見せかけて言っておくことで、女児から逃げ道を奪い去ろうとします。


ここでノーと答えるだけの理知のないのが女児であり、そのような理屈に反論する事は大人の女性でも無理な話なのですから、そこでノーと言えなければ、その女児は訳が分からないまま男のなすがままに押し切られていく崖っぷちの瀬戸際に立たされる事になるでしょう。

 

話を戻すと、守る、という事は個人から発するものではなく社会から発するものです。そのうえでそれぞれの持ち場にある存在を守るというのがそれぞれの個人の役割です。いわば、弱者を守るのは社会の仕事なのです。


そしてその報酬は、決して自分の性欲の満足や復讐心または支配欲の満足ではなく、弱者が守られるという事実です。最後にお姫様に対し性的交渉に手を付ける従者のヒーロー譚というのは悪心由来の虚偽の物語です。


個人の立場で受け持つ社会の責任を超えたところに、弱者を守るということは成立しえません。
その自分に天や社会から与えられた分限を超えて弱者を守るということを行おうとするところに、間違った男尊女卑が現れる事になります。

 

男尊女卑とは、女性が男性に忖度する事を強いられている、と言われることが多いですが、事実はもう一段複雑なのだと思います。
それは、男性が女性に誤った理解を持つ事で、その結果として誤った忖度を求める事になっている、という事です。


上で述べた様に、男尊女卑の男性は勝手に社会から与えられた自己の分限を超えて、自分の我欲のための行動をしているのですが、その自分を自分では女性を守る事をしているというふうに虚偽の美化をしています。
そういうふうに事実を偽装すると、自分はあたかも白馬の騎士であるかのように正義のヒーローという空想に酔うことになります。


そこから女性に向かって、あなたを守ってやるのだから、忖度しろ、尊敬しろ、という命令が出てくるようになり、それはもともと支配欲から出たヒーロー幻想であり、相手の立場や事情や交流関係などお構いなしなので、一方的に侵害してくる不正な命令にしかなりません。


そして、支配する男性側は、その意に反するような事、例えば、自分が守ってやらねば生きていけない(というふうに既に虚構の物語が男性の中ではできあがっている)小さくてか弱いのが女性だからこうして奮起してヒーロー役を演じようと努力しているのに、その女性の方が学歴が高い、社会的地位が高い、収入額が高い、芸術的才能が高い、などの事が明らかになると、とたんに男性の側は、話が違う、私がヒーローを演じる役の世界設定はそうじゃなかった、と駄々をこね始めて、とたんに関係は嫌悪なものに変わっていくのです。


そういう愛憎劇は洋の東西を問わず、政治家や映画関係者、文学者や芸術家や哲学者などの間にはいくつも見られ、広く知られているものです。


結論として、男尊女卑は、二段構成なのであり、女性を小さく弱く劣ると見ることが間違いなのではなく、間違いは個人の勝手な幻想を相手に与えて押し付ける事をし、その事に忖度を要求する事にあります。


それはとどのつまり、男性が個人として女性に何らかの要求や命令をする事が社会的に何らの正当なものではない、という事であり、その思い違いは自分という個人が特別に理由もなく、それでも相手という個人を守ってやっているのだ、守ってやらなければ相手は何もできないのだ、という現実無視にして相手無視の幻想から生じている、のであり、それをやめたら自分のヒーロー像が崩れる、という利己欲しかない、という事です。


一言で言えば、自分がヒーローであるために、その女性は社会的に小さくてか弱い劣った存在である事に反して、個人的にも自分より小さくてか弱くて劣った存在である事を求める、のが男尊女卑という事でしょう。