もしプラグマティズムで教えているような「必要があるならばいかなる場合でも信じて良い」
「有用なものは全て真理である」という事であるならば、その理屈の裏を返せば(対偶命題を取れば)「信じてはならないのは必要がないものである」「真理でないなら有用なものではない」となります
これは真理とは言えますが、重大な欠かせない条件があります
客観的な社会の(全体にとっての)事実として有用であること
これが欠かせません
しかし、プラグマティズム的な文脈で語られる有用性とは、私が損をしない事、で、あわよくば私が得をする事、あるいは私が得をすると思える事、そのようになり、それはその思想の発案者が直々に考えているらしい事が、話を聞いていて見て取れるのです
(私はプラグマティズムを提唱した人たちの著書を読んだ事はありません。しかし、解説を聞くだけでおかしいと分かっている理論の原典を読むほど苦痛な事、無益な事、そして読んで学ぼうとしてもその教えには無益で有害な事しか教えてない事がはっきり分かりそれらの矛盾点を明確に指摘できるようになる、というだけの学びにしかならない、という事は、経験としてよく知っています。
つまり、嘘だと分かる嘘について、普通の人はそれ以上言わなくても通じるので、それ以上の詳細は感知しません。それで普通は上手く行き、それが社会とか社会の通用性や常識があるという事ですが、その常識がない相手ほど、ここに論による論破を要求してくるのです。
その論破がなければ、社会で言う嘘であってあからさまに嘘だと分かっていても、口だけで証拠がないと言って彼らは人々の足元を見て嘘を押し通し日々悪事を重ねているのです。
そういう悪の人たちを懲らしめるために、誰かがその彼らの信奉する悪の原典に切り込んでいってそれを研究し、彼らの嘘を根底から白日のもとにさらして虚無であることを暴かなければ収まることがないのです
ここに2つの種類に分かれることが見て取れます
悪の理論を、悪であることを暴くために読む人
悪の理論を、悪であることを賛美するために読む人
後者は、そのままでいる事は社会で許されない人々です)
つまりは、どういう事かというと、
「あの人は私の言う事を聞かないで、私に逆らって私にお金を運んでこない。有用でないから、あの様な人はいらない、あの人は間違っている」
と、この様に考える事が「真理」という事になってしまう事をその理論(プラグマティズム)が許す事になるのです
こういう考えはどう見ても真理ではありません
そしてこういう考えをする人が、プラグマティズムは正しい考え方だ、役に立つ考え方だ、と傾倒して、世の中の常識に逆らっているようにしか聞こえないでその実真理の反対であるその説を吹聴したりする事になるのです
根底においてほぼ同種の考え方にストア派の哲学というのがありますが、ここでは深くは触れません
さらに、元に帰ってプラグマティズムの理屈をよく見てみると、次の事を言っている事も分かります
「必要があるならばいかなる場合でも信じて良い」
の対偶命題
「信じてはならないのは必要がないものである」
は、信じではならないものを、必要がないもの、と教えていることがはっきり読み取れます
また、
「有用なものは全て真理である」
の対偶命題
「真理でないなら有用なものではない」
は、真理でないものとはどういうものかという事について、それは有用なものではないという事だ、と教えています
これらは正命題を表とし、対偶命題を裏としての表裏一体を確認する事で、その主張の言わんとすることの全体像が分かるという事です。決して正命題では分からなかった事が、対偶命題一つで語られる、という事ではありません
ここには一つの齟齬があります
有用でないというのがブラックボックスになっています。つまり、有用であるという事は、最後の最後までその対象と付き合った後に分かる事ですが、それが分かるか分からないか、ひいては、それが有用であると結論が出るか、有用でないと結論が出るかは、最終結果という事になります。
すると、プラグマティズムの教えというのは、最後になってみればその時はそれを考えた人に明瞭に分かり、また最後までそれを考えるのでなければ分からない事を事前に持ち出して、あたかも初めからなにかの予言でもするかの様に意味深な言い方をして人々の信奉を求めているような詐欺商法をやっているのです
つまりは、「1+1」を解いて2が答えだと分かった時に、「◯+△には必ず答えがある」、というふうに見せかけて、「◯+△には必ず答え2がある」、というふうに騙って人々を欺いているのです
そうして、我らの教えを信じよ、「◯+△には必ず答えがある」は間違いだからその教えは捨てよ、「答えが2である時に限り、◯+△は正しいのだ」「だから選挙では『答え2』に投票せよ」という様な嘘の教義を世に広めて悪を栄えさせようとしているのです
また、ここでの有用というのは、あくまで人の立場から見て良いところがないと分かった時に、人の立場にとっては有用でないと結論がつく、という事をいうものです
これは人の社会の話なので、本当のこの宇宙やこの星の全体を考えれば、人にとって無用でもそれ以下の生命の連鎖循環の機構の中の一員にとっては有用であるという事もあることが分かります
人の世界というのも、この星の中で最上位であるとも言えません。人にとっての有用は、それより上位の存在があるとすれば、そのお下がりなのです
こういった考えから私に有用でなければ信じてはならない、という考え方を採れば、他者への侵害や自然破壊に容易に結びつく事が考えられますが、残念ながらそれは既に実現しています
また、個人の立場で有用でないからと、自分の都合の良し悪しで他者を間違っているという事を正当化する事にプラグマティズムは貢献していて、その教えの中にはそれを防ぐような論理はどこにも見られません
なにせ、提唱者がそういう個人的な目線しか持ちえていないのですから、個人主義を廃するどころか、個人主義を繁栄させるための考えなのがプラグマティズムです
さらに話を進めると、必要というのも有用というのと同様です。社会という絶対の範囲の中で必要ないと結論されるものでなければ、一部の部署や範囲に必要なくても全体にとって必要である事はすぐ分かります
例えば、本をリサイクルに出すとすれば、その古本の買い手が売り手の反対側にいると考えて成り立つという事でやっている事になりますが、プラグマティズムにかかると、売り手にとって必要ないからその本は信じてはならず、有用なものではない、という事になります。すると、買い手にとってもその本は有用ではなく、買い手は手に入れたその本の内容を信じてはならないのでしょうか。そもそも売り手は自分が信じてはならないと認め、有用でないと思うものを、他者に譲るのでしょうか?それはどういう譲渡なのでしょうか?
まさか、ゴミや有害な物質を、自分は困るから他者に持たせておけば良い、という考えでしょうか?それは原子力発電所から出る核廃棄物を世界の首脳陣や知識人がどう扱っているかのそのまんまではありませんか?
こういった事を考えると、プラグマティズムの教えは一見真理を説いているように見えて、その実は聖書にもある「果実を見てその木を知る」の言う知恵の言葉に似せる事で、個人主義という虚偽を真理にみせかけ、個人主義を正当化するための試みであったと理解できるのです
上で述べた「◯+△には必ず答えがある」を書き換えたのが「◯+△には必ず答え2がある」でした。これは、「答えが2であれば◯+△を考えてもよい、行ってもよい」という命令とも受け取れます
「結果の有用性を見てその考えの正しさを知る」というのが聖書の教え「果実を見てその木を知る」でしたが、これを書き換えたのが「結果の有用性を見てその行動の正しさを知る」というのがプラグマティズムの悪の教えです
これは「結果が有用だったと主張できさえすれば、その行動は正当と主張してよい」と人々への脅威となる横暴を正当化する考え方です
この考え方にはどこにもその行動やその結果の正しさを証明する客観的事実がある事を必要で欠かせないとする考えはありません。全ては「自分が主張しさえすればよい」の口だけで押し切るという横暴しかないという事です。これがそのまま現代人の考え方に採用されて、世界中で日々いたる所で行われているのです
実際プラグマティズムはアメリカで発祥し、世界に広がりましたが、その考え方はアメリカで一山当てようと考える利己的な人たちにとって都合が良かったのです
その事でアメリカという国は、自由主義の精神と言いながら、そこにそれに似て非なるプラグマティズムがいつもくっついていて、結果としては他国に評判の悪い底の浅い考え方しかしない利己的な個人主義国家と成り下がっているように思えます
その事で一番迷惑しているのは、純粋な、真理を重んじて生きているプラグマティズムと無縁のアメリカ国民でしょう。一部の知識人が、利己的なプラグマティズムを武器として、自己の我欲を正当化しながら横暴を働いているに過ぎません