常識などないという人

常識に基づいてする話を一切受け付けない人がたまにいます。

 

 それはあなたの感想だ

 感想でないなら証拠を示せ

 

こういった反応が返ってきます。

仕方がないので

 

 あなたのそういう態度は作法に反するので、直さないと人々の信用を失いかねませんよ

 

と伝えるのですが、

 

 証拠を出してから、話はそれからです

 

と返ってきました。

 

こういう人が分かっていないのは次の2点です。

 

1 すでに確かめられている原理の知識に基づいて今の個別の問題は自ずと答えが導かれる

2 個別の答えを一々明文化する必要がない

 

このことに反する彼らの考え方は以下のようなことになります。

 

 書かれたものを示せなければ、そのような事実は存在しない

 

これは明確な理性的な視野狭窄あるいは自閉と言うべきでしょう。

 

以上を総合すると以下のようになります。

 

3 常識とは、社会が認める原理とそれによって個々の問題が解かれたという事実の知識であり、明文化されていない社会共通の(基盤的(前提))知識である

 

この常識を笑う人間はこの常識(の無視により、この常識の必要かつ妥当だったことに気付いて己の無知)に泣くのです。

 

参考として、プラトンの著作『国家(上、岩波文庫、藤沢令夫訳)』より画像引用いたします。

 



おまけ

ここから下はこの話題について最初に書いた文章です。長いのと、投稿できなかったのでボツにして書き直しましたが、原文も一応ここに貼っておきます。

 

世の中には、常識ということを持ち出すととたんに鼻で笑って否定してくる人がいたりします。

 

例えば、ネット上の作法とかエチケットを守れていないという指摘がされた場合に、そんな事はいまや誰もやっていない、と見下して嘲笑してきます。さらには、もしそれをする必要があるというなら証拠を示せ、と言ってきたりもします。

 

そういった人たちの従っている考え方は、昔から当たり前にあって信じられてきている知識の教えを「古い考え」と呼ぶ人たちの提唱してきた「新しい(流行の)考え方」です。

 

その考え方の人たちは、常識には間違ったものが多い、ど主張し、だから、と話を続け、常識を持ち出すなら正しいことの証拠を示せ、と言ってきます。

 

それはあたかもそういう考え方のできる自分は賢く、相手はそれを知らない(と決めつけている)から愚かだ、といったことを言いたげな態度に見えます。

 

しかしこの要求は、

 

常識は間違ったものが多い

だからその指摘(する常識とやらが)正しいということなら証拠を示せ

 

という論理ですから、明確に

 

その指摘は間違っている

 

と主張しています。

 

しかしそのことを口にしていなくて隠しています。そうして、相手に「主張するなら根拠を示せ」と詰め寄っていく強請り行動を行うのです。

 

 

以上の流れは明確に、相手が先に主張しているという流れです。

 

A ある指摘

B それは間違っている

  (なぜなら、常識には間違いが多い)

B 正しいなら証拠を示せ

 

ここでおかしいのはA→B→A→Bという一問一答でサイクルしていく対話になっていないで、Bの方が一度に二手行い、一人で「主張に反論する側」「主張に証拠を求める側」の二役をやっているということです。

 

そこに足りないのはAがBに証拠を求めるターンです。それを「上書き」するように、BがAに証拠を求めるターンがくっつけられています。

 

また、そもそも主張は根拠に基づいて行われない、ということはありません。相手から根拠は?と問われる場合は必ずその人は言い逃れをしているだけの場合であり、主張はしていなくて、主張できるような客観的な事実は何一つ持ってはいないのです。

 

主張   ◯◯である

 

反論   △△であるから

     ◯◯ではありえない

 

言い逃れ ◯◯(という他者の主張は)

     〜だからダメだ

     (単なる貶め、矮小化、攻撃)

 

 

ここで二人がまず問うて明らかにすべきは、その「ある指摘」が、「多く見られる間違った常識の中の一つであること」、を示すことです。

「ある指摘」が間違いである点を示し、では何が本当は正しいのか、その知っている正しい点を示す必要があるのです。

何が正しいかを知らずに、何かを間違っていると指摘することはできません。 

 

ここで相手には2つの流れの分岐が生じます。

 

一つは、上記の証明がなされた時には、「ある指摘」は間違っていることが示されたことになります。その場合、「ある指摘」が正しい証拠はなく、それを示す必要もありません。

 

一つは、上記の証明がなされなかった時には、「ある指摘」は間違っていることは示されていません。その場合は、相手から要求できる正しさの証拠というのはありません。間違っていると指摘していないなら、何の反論もないはずです。

 

以上から、BがAに対して証拠を求めるという必要は現実には生じ得ないということが分かったことになります。

 

ここでは、Aは「ある主張」の根拠を常識にとり、常識に基づいて発言しています。常識とは、すでに確かめられた事実と、そこから直ちに導かれる必然の帰結を含めたものを表しています。

 

例えば、人にやさしくしなさいと言えば、「妹に優しくする」ということは当然すぐに導かれて誰でも分かることです。ここに「妹は人と同じではない。妹は画数が8であるが、人は画数は2だ」とか言って言い訳または言いがかりをつけていくのが、この記事で問題となっている常識を否定する人の考え方です。

 

その人達は平然と「人に優しくすることは、妹に優しくすることと同じことか?」と、自分が疑問なら自分が考えるべきことを、そのステップを素通りしていきなり相手に「問い詰める」のです。

 

それはそのまま、その人の考えが「自分ではそのようなおかしなことを疑問とは思わない、それをお前に問うから面白いのだ」というようなことであることの表明に等しいものです。

 

えてしてこういった方々は、自分には問うことのない責任を他者に問い、他者を苦しめることが目的でSNSにいるわけです。

 

話を戻すと、そもそもAの指摘は社会で正しいと理解されているからこそ常識となりその様に理解されているものに従ったもの、であるわけですから、それに対して間違っていると主張するなら、その主張者が証明をなさねばなりません。

 

しかし往々にして彼らは、自分の否定者は眼の前の相手、指摘者だけであり、指摘舎個人が自分の「感想」を述べてきているだけだというふうに無理に解釈して空想からそれを信じ切るという手段でこの嬉々を押し切って逃げ切ろうとしているだけです。それは単なる現実逃避の自己保身です。

 

これは、例えばタバコの害、ポルノの害、ワクチンの害、などにおいても同様のことが言えます。

 

例えばポルノの害であれば、ポルノのどこに問題があるのか根拠を示せ、という場合、すでに社会で行われている各種の規制がある事実から、ポルノに問題はないという主張は社会常識に反しており、常識に反することの方が正しいという証明が必要なのです。その証明はまずできないでしょう。もしできたとしたならば、ポルノに害があるということは事実でないということですから、当然その証明はできません。いずれにせよ、ポルノに害がある根拠を示せ、と問う場面は現実にはありえないのです。ですから、彼らがそのような問い詰めで迫る場面というのは、もはやコントでしかありません。

 

ワクチンについても一言しておきます。

ワクチンに害があるというなら証拠を示せ、とワクチンを賛美している方々は言われますが、コロナワクチンというのは異例の間に合わせの登場となったわけであり、通常の西洋医学の手続きで言えば、見切り発車で到底認めうるものでない、という証言が知られています。それに従えば、ワクチンの安全性については、社会常識に反しているのがワクチン推進あるいは使用ということなので、安全であることの証明の必要があります。それに対して彼らの言うことは、多くの人の命が救われた、であり、問いに対する答えつまり安全性の証明にはなっていません。

 

いずれにせよ、あることの正しさあるいはあることの決定は、今の対象を見て決めるものではありません。プラトンも国家という著作に書いているように、すでに成立している基盤となる知識や事実に基づいてそれに従って、今の問題の答えが導かれる、ということです。

 

例えばそれは、水は沸騰するから液体は沸騰する、と分かり、油やエタノールも沸騰すると分かる、というようなことです。

 

これは先例に従うのではなく、あらゆる事例が液体の本質の原理あるいは法則に従うということで、その原理法則から切り離された個々の液体の現象というのはない、ということです。

 

それを今の時代の裁判などでは、先例を引いてきては、今の問題を削ったりくっつけたりして同じ形にすることが、今の問題に正解を出すこと、だと最高裁の裁判長ですら考えているような人がいるらしいということです。

 

それは、カボチャの種を蒔くとカボチャらしい芽が出て茎が伸び葉が出るので、それらを一々先例のナスビと同じに見えるように切り貼りし、できた実を紫に塗ったりすることが「カボチャの実を刈り取る」ことだと勘違いしたような考え方です。

 

ナスビの種を蒔いて育てると実がなったから、カボチャの種を蒔いても同じように実がなるだろう、ということの、原因と結果の部分を取り違えているのです。

 

野菜の原理が、その種から実がなるということをいわば支配しています。

 

常識などないという人は、原理などないと言って、ナスビの先例がカボチャを支配しているのだと声高らかに主張しているようなことでしかないのです。

 

別の例えで言えば、掛け算の問題を解くには、その数式を眺めていることやいじることで解決するのではなく、足し算の原理を思い出して用いることで解決されるということです。

 

2 × 3 =

 

2 + 2 + 2 =

 

6

 

ここで、足し算の知識というのがいわば算数あるいは計算などの算術の世界における常識ということの一つに当たるでしょう。

 

しかし彼らは次のように言うでしょう。

足し算なんか知らない、それはあなたの感想だ、ここには掛け算の問題しかない、勝手に足し算の話を持ち出すな、足し算が掛け算の問題に関係あるというならその証拠を示せ。

 

そこで、計算問題なら上の足し算部分の式を見せれば証拠となるかも知れませんが、それをすると彼らは大抵次のように反応します。

 

「それで、足し算で解けてよかったですね。それは掛け算の答えとたまたま一致しただけでしょう。足し算がしたかったあなたの気持ちは分かりました。しかしあなたは掛け算を私の指定した掛け算のやり方で解けていません。あなたは私が求めたことを何ひとつできていないのです。」

 

これは、すでに確立してある原理を指す「ある常識」からその原理を思い出すことで、今の問題の答えを導くという事実について、それを否定して、今の問題の答えは今の問題の中から導き出さなければならない、と主張していることになります。つまり、原理の知識は使用禁止であり、常識は使用禁止という条件に従うことを求めるということです。

 

そういう要求によって、知識に従って答えが導かれる、という事実が、何の根拠もなく相手の突き出す条件に従って答えを導け、という命令に置き換えられ、この世の道理にかなうことが問題解決であるということが彼らのマイルールにかなうことが彼らの問題解決である、ということに話が矮小化され個人化され閉鎖化されて、完全に話がすり替えられています。これではいかなる問題も解くことはできないでしょう。

 

常識とは、社会に蓄積された確かめられた原理についての知識の集大成のことだと言ってよいでしょう。それを否定する人はひとえに原理とそれへの知的なアクセスを否定禁止することで、己の我欲の悪事のために人々が信頼して依拠するなくてはならないものを無に帰すような言論をして人々を欺いている人だと言えます。

 

そういう人に、あなたは社会で信用されないでしょう、と常識に基づいた指摘をしても、彼らは「はい、お気持ち論です。ありがとうございました。」と返してきては、自分たちが賢いというポーズを誇示し、こちらを見下して嘲笑するわけですが、当然その主張には根拠がなく、また根拠となるような客観的事実はありえないこともはじめから分かっている話です。

 

彼らは常に、その場の中に視野を限定し、その場が生じている母体である社会やその社会の常識に一切触れさせません。

 

そのうえで、他者からの指摘には「私はそんな事は言ってない」「どこで言ったか引用して示せ」と返しさえすれば反論が終わったと信じているさまは裸の王様ということです。

 

例えば、人に暴力をふるったことで「いじめは止めなさい」と言われれば、「私はいじめなんてことは言ってない」「いつ言ったか証明せよ」と返してくる人がいたりします。

 

その人に対して言いたいことは、知識とは理解の基盤であり、その上で今の物事がはかられていくものだということで、「常識」に照らさずして判定が下るということは一つとしてないということと、「常識に照らす」ことが知識を導き、知識がある人を賢いというのであれば、それを否定することは賢さの対極にある、と言えるということです。