性産業を肯定する論文についての反論

ある軽度知的障害女性の性産業従事者についての「肯定的論文」への反論

 

批判対象の論文

[研究ノート]
反抑圧アプローチの視点から迫る軽度知的障害女性の性産業従事
―当事者の語りから従来の言説の捉え直しへ―
武子 愛
(Ai TakeshiTakeshi)
児島 亜紀子
(Akiko KojimaKojima)


反論

まず、社会の普通の職業・就労と性産業ということ・就労を同列に扱うことに根拠が無い。
論文の著者は、従来の研究では性産業に関わる女性は性的な搾取を受けているなど犠牲者としてとらえられてきたと言うが、そこからどうして犠牲者があるという事実があってはならないのか、犠牲者を”主体的な存在”へと意味を付け変えていこうとしなければならないのか、そのことの理由がいるが、一切暗黙の前提としてそうすることが研究に新しい地平を開拓すると言ったような気分的な空想が語られているに過ぎない。

 

性的な搾取があるからこそ、女性は「身売り」に等しい行為を労働・職務として携わらせられている。そういった歴史的な事実が女性への性的搾取の存在であり、その事実の存在である。そこで犠牲者ではないのだと主張するならば、歴史的に女性への性的搾取犠牲者はなかったのかと著者らに問いたい。著者らは、その問いに「女性への性的搾取はなかった、そのような歴史的事実はない、彼女たちは”主体的存在”だったからそこには犠牲者はいないのだ」と回答できるのだろうか。

 

第二に、彼女らは性産業において褒められ認められ主体的に「社会的成功体験」を経験するという「活躍」をできたのではない。
彼女らの体験は、社会的成功体験であると確言できるか。

 

性産業とはどういう物かを考えてみる。

それは、女性が自らの体を差し出し、見ず知らずの男性によって本来伴侶であるべき二人が行う生殖行為を”労働”として差し出すことである。

そこでは女性は身体を投げ出し、明け渡し、心を殺し、何も感じないようにして、男性が「交わってくる」のを「黙って受け流していればいい」ということである。そういう”労働”が一般社会の労働に対して「敷居が低い」ことになり、知的能力に障害を抱えていても問題なく扱われるということは、ひとえに社会的能力を求められていない”職場”である、と言えることにある。

 

それは、体を差し出して男性が「終わる」のを「待っていれ」ばいい、というだけの仕事を求められる。当然女性は手持ちぶたさである。人懐っこさあるいは人に良くしたいという意欲があれば、そこに自主性が生じてくるのは自然の摂理である。すこしでも「お客さん」にいい気分になって帰ってもらおうとすることは、その本質的に自らを犠牲にして終了を「待っている」だけの仕事において、やりがいや励みになっていくのは理解できる事である。

 

ましてや、そういう社会に顔向けできないような”労働”環境であれば、そこの経営者は、女性が自らの体を見知らぬ男性に差し出すという”業務”を快く引き受けてくれる就労者をそうそう得られるものではないことは分かっている。それゆえにそういう経営者は性産業従事者の女性を、「ねんごろに扱う」ことをすることは想像に難くない。褒めたり、励みを与えたりするであろう。そして、社会的な創造的知的能力を彼女らに求める必要がないのだから、そういうことの不備や障害を問題にすることもないであろう。

 

そうやって得られる彼女らの非社会的で私的な慰み・心に受けた傷の癒しの類は、すべてが廃絶すべき女性の性搾取のお盆の上で展開している事柄に過ぎない。


引用

外の世界で暴力に晒されてシェルターに入ったA さんやB さんにとっては、施設は外の世界よりずっと安全で安心できる空間だったかもしれないが、その一方で行動の自由は制限されていた。B さんは集団生活ゆえに入浴の時間が自由でないことを語っており、A さんは外出がままならないことを[刑務所のよう]だったと表現している。ヤングのいうとおり「他者が享受するような権利や自由」が剥奪されていた状態にあったわけだが、支援者たちとの関係が良好であったために、彼女たちはそれらのことを抑圧と感じている様子はなかった。また、ヤングは福祉の対象者にシェルターや食べ物が与えられ、快適な暮らしが提供されたとしても、抑圧的であることに変わりはなく、その抑圧は「社会的な身の置き場のなさ、退屈、自尊心の欠如といった形で残存する」(Young 1990 =2020 78) と述べている。ヤングは福祉利用者が施設を出たあと、福祉の対象者に向けられる眼差しも抑圧として捉える。施設を退所したあと、一般的な就労を経験しているA さんは、知的障害者であることを面接で告げると性産業以外の場所では採用されないと言い、「社会的な身の置き場のなさ」について語っていた。


反論やコメント

性産業への従事によって、彼女らに与えられた一時の安堵の安らぎは、彼女たちに無理が大きい社会的知的能力(計算能力など)を求められないその環境・労働条件にあり、その労働条件の名こそが「女性への性的搾取」である。
彼女たちは論文の後半に筆者ら自身が書いているように、性産業を職業としてを”選択”したのではなく、「それしかなかった」という健常者社会の福祉の至らなさの現実に足元を見られたという苦肉の策に他ならない。


引用

通常、知的障害のある人たちはどこにいても、補助的業務につき、誰かの命令のもとに仕事を進める。福祉的就労以外の、障害に配慮されない現場ではなおのことで、仕事ができなければ周りの人たちから注意されるし、なんとかこなせても褒められることはない。性産業従事は、彼女たちにとってそのような周辺化・無力化される場所から離脱する、制限された選択肢からの選択であった。しかし、彼女たちは性産業の現場でコミュニケーション能力を磨き、自ら危険を回避するための交渉力を持って「抵抗」していた。このことは彼女たちのレジリエンスと捉えることができる。

 

反論やコメント

性産業において身に付くスキルとは、(広義の)公人(つまり見知らぬ人の意)に対してもてなしをしたり、心理的な「おもり」「あやし」をしたりするという、主に気分の面倒を見るという精神的世話のことである。これは通常は水商売と言われる職業において行われている”サービス”と本質は同等のものであろう。私はこのようなスキルを身につけることは、決してこの社会において経験される普通の意味での社会的成功体験とは程遠い、個人的・私的な強制的義務体験であると言えると思う。早い話が「性的に締まりのないだらしない大人たちのお守り役」である。そのような非社会的な役割を女性が求められることこそが、この現代における倒錯した一大ハラスメントであると指摘する。

 

引用

AOP の立場からいえることは、支援者はこれまで述べてきたような知的障害者を取り巻く抑圧の複雑さを注視し、これ以上抑圧を再生産しないような支援関係を模索するとともに、なぜ彼女たちが性産業を選択しそこにとどまるのか、その理由と構造を的確に理解することが重要だということである。本研究の対象は2 名のみであるが、彼女たちの語りから、いわゆる一般社会が軽度の知的障害がある彼女たちを周辺化・無力化する場であることが浮かび上がってきた。一般社会において、自己肯定感の低下を始めとするさまざまな困難に直面してきた彼女たちにとって、性産業が重要な受け皿になっていたことが確認できた。

(注)AOPとは
反抑圧アプローチという手法を用いるソーシャルワーク理論のこと。
フェミニズムや反人種主義、マルクス主義ポスト構造主義といった多くの批判理論が切り結ぶまさにその地点に誕生したソーシャルワークのアプローチであるといいうる」
AOP の究極の目標は、非抑圧的な人間関係及び社会の創造であるとされる」
とのことである。


反論やコメント

後半部分が社会の重要な解決問題であることには異論はない。しかし前半は大いに問題のある記述であると思う。
それは以下にさらに引用をし、まとめて私の意見を記述する。

 

引用

ここまでの分析の結果、軽度の知的障害がある彼女たちにとって、性産業は抑圧に対して抵抗することができ、主体的な行動を発揮しやすい場所であることが明らかになった。本人たちにとっては、それだけ他の場所は主体性を発揮しにくく、周辺化・無力化されやすい場所であり、そのことに比して性産業の現場は彼女らが生き延びるための抵抗をしやすい場所であることがうかがわれた。周辺化・無力化は知的障害者であると同時に女性であるという、インターセクショナリティに基づく特有の困難と関わっていると考えられた。

AOP の主張する社会変革とは、性産業をワーカーたちが働きやすいような場に改善することだけを目指すものではない。彼女たちから、彼女たち自身が主体的な行動力を発揮しやすい性産業という就労の場所を奪い、代わりに周辺化・無力化される就労へと向かわせるのでもない。知的障害のある女性たちが周辺化・無力化されない就労の場の創設を目指す努力が市民社会の側にも、そして政治にも求められよう。

(注)
周辺化とは
 肉体的あるいは知的障害など社会的生活を困難にする一部の属性的条件を持った人々が置かれている、社会の労働市場から排除されて行き場の失われている状況のこと。

 

無力化とは
 自らが決定権を持つことが不当に剥奪されるという状況にある人々の置かれている状態のこと。


反論やコメント

問題は、筆者らの驚くべき見解・主張に見られる”いかに性産業を彼女ら従事者に働きやすくするか”といったようなことではなく、いかに社会という労働の受け皿の方に、彼女たちのような障害のある境遇を受け入れ、社会参加を促していくかの形を付けることであるはずである。彼女たちの”主体性”だとか、受け皿のない公的環境の方がそのまま放置された中での”彼女たちが<気持ち良く>選ぶ・選ばない”といった気分上の解釈をつけることや、社会環境に対する個人の内部での意味の付け替えによる観念上での解決の問題ではない。その点でこの論文筆者たちの考えていることの暗黙の前提にある考え方は、何らの客観的根拠のない間違った観念上の空想であり観念の遊戯である。それは、社会的な受け皿に対して何のアプローチもできないで、また、していない、役に立たない考えのら列された徒労の議論でしかない空想論に過ぎないと、その大部分の主張については思われる。

 

(最後のくだりにやや強い表現がございますが、あくまで思想や理論的思考に対する指摘であり、著者の方の人格を否定するものではないことをお伝えさせていただきます)