生徒に「はい!」と言われる教師は失格

最近、ネットで「z世代に分かってもらう話の伝え方」という様な風潮の記事を読みました。

 

そこでは、生徒をとにかく褒め、肯定的な物言いで励ます?ように言えば若い生徒は分かってくれるし劇的に変化する、と新興思想の宣伝文句のような事が書かれていました。

 

これはアクティブラーニングというのが出てきたり、はたまたトランスジェンダーというのが出てきた時、もそうなのですが、海外で席巻している浅薄な流行運動が権威主義で日本にコピーされるという現象でしかなく、社会にとってその由緒に合うように、その、他の思想の由緒を確かめてから合えば取り入れる、ということをする事がない、という大変危険で有害な風潮でしかありません。

 

本題に帰ると、例えば、生徒に、「〇〇ができてない」、と指導することは生徒の気分を害し、やる気を無くさせるので駄目だとされ、代わりに、「君には力があるんだから、〇〇を気をつければ今よりもっと伸びるよ」とか言うのが「正解」なのだそうです。

 

そしてそういう「正解」の待遇を生徒に施した時、生徒は決まって「はい!」と答えるのです。

 

私はこれは大きく違うと思うんです。これは、待遇を変えたのであって、待遇を教えた事になるのです。

 

しかし教師と生徒の関係は、知識を教え、また、教えを乞い、学ぶという事です。

 

生徒の「はい!」が向けられているのは、「もっと伸びる」という自分の「得する願望」の事に対してです。そこでは、肝心の授けて理解されるべき知識の〇〇が、二の次や、飾り物の位地に貶められて置かれているのです。

 

これは、茶碗にご飯を盛るというのを、ご飯に茶碗を盛るというくらいに話が後退転倒し、学問の学びの機会が矮小化され虚無化されているのです。

 

そして生徒の側に何が起きるかといえば、単に相手を変えさせる事で自分の願望が世に通ったという体験にしかなりません。

 

教育の場に求められているものは第一にその授けている知識です。そしてそれを授ける方法に古今東西・新旧・老若男女の違いなど基本的にないのです。その上で各自の事情にあった指導内容が臨時にそれぞれの生徒に対して生じてくるのであり、そこは誤差ともいえる二次的以下の部分に過ぎません。

 

その二次的の部分に焦点を当てると言うのがこの記事で問題している、z世代を言葉の口上捌く方法、という新興流行思想です。

 

この考え方は、古代ギリシアに流行しソクラテスに非難されたソフィストと呼ばれる詭弁者が知の教師の名を騙って教えていた弁論術と同根のものです。ソクラテスが言うように、ソフィストは第一の真理ではなく二次的な弁論術・説得術による詭弁を教え、白も黒に話をすり替え、黒も白に話をすり替えるというふうに喋る「技術(いわゆるテンプレート)」を教える事で、真理を蔑ろにしていたに過ぎないのです。それも、高い報酬を取って己の欲のためにやっていました。

 

それで、「はい!」と生徒に言われたら、あるいは言わせたら、それは教師失格なのです。

 

 

では、生徒はなんと答えるべきが正しいのでしょうか?

 

まず、これは生徒の側の問題であり、だから教師が指導する事になっているのです。この常識すら理解されてないのがz世代の捌き術の弁論術にかまけて世に吹聴している悪の教師たちです。

 

そして、生徒は、社会人になる者としての、その準備段階において、後に参入する社会と同じように振る舞うことが求められ、また指導するのです。

 

その場合、生徒は教師との、教え、教えを乞う、学びの関係として、その関係の礼節を守り、対等に、教わる側の者として「先生にご説明いただき、分からなかった部分が解決しました。ありがとうございます」と、このように自分が受けた恩恵の事実と、感謝を自分なりの言葉で拙くても良いからとにかく表明して述べる事が、この関係やこの場において、そして後に社会につながっていく練習の場として、生徒にふさわしいのです。

 

弁論術の教師は、生徒にふさわしくない考えや思い違いや態度を植え付けているのです。そして、そうなった事で、自分の指図通りになったことに満足し、快感を覚えているのです。いわゆる自己満足です。

 

社会にとっては幼稚な精神性を直される事なく生徒を卒業させ新社会人として送り込まれる事で迷惑でしかありません。

 

大切なのは、生徒が延びる事ではなく、社会の一員として恥ずかしくない知性と良識を持って、相手が必ずいる社会の一員として道理や徳の名にもとる事なく立派に振る舞える一人の人間に育てるという事です。

 

生徒の増上慢を伸ばして、手入れのされない庭の雑草の様にして、何が嬉しく、何が喜ばしく、何が誇れるのでしょうか?

 

「はい!」などというのは勘違いした甘えの骨頂です。そういう場面があれば、それを導いた自分を恥じ、自分共々生徒の勘違いを直す事が教師の任務の始まりなのです。

 

 

 

 

 

 

菜食を馬鹿にする人たち

一般に生命として、人に似た姿を持つ生き物ほど、それを食べる事に対して抵抗や疑問を感じます。

 

そして野菜や植物は大きく人間や動物の形態と異なる事が見て取れます。それはちょうど動物に対して対極の関係にあり、そういう正反対のものは一方はもう一方に属してその下で働く、という事もまた一つの真理です。つまりは、お互いに助け合う部分があるわけです。

 

例えば昼の光が遮られた中に闇が生じるなど。その闇の中の休息ということもまた生きるには必要なことです。闇が良いのではなく、昼の光に対して休息するのに闇が良いのです。

 

そして植物を食するというのは通常その本体から落ちて離れていくものが実であったり食べる部分であったり、また葉であったりします。リンゴや人参、キャベツやほうれん草など。

 

その事に対応する部分を人間に探してみると、髪の毛や爪、皮膚の表面と言ったものがその野菜で食べる部分に当たるのでは、と思われます。

 

この事から、肉食を棄てて避け、菜食を志す人々に対して、それを揶揄するかのような表現の自由戦士という、「リアル」の社会で役に立たないばかりか迷惑や足手まといにしかなってなくてその事を真面目に受け取るでもなく逆に自分にすぐに被害が及ばないであろうと思われるネットの匿名のSNS空間で詭弁を弄して人間狩りをして憂さを晴らし、日々の自分の至らなさが招いている事態の一々の報復をする八つ当たりをする、という人たちの言説があります。

 

彼らの主張は、「植物だって生きているのになんでそれを食べるのは平気なの?」ですが、これは上に見たように、植物を対象にして真摯に向き合って検討したことのない机上の空論と詭弁に遊んでいる人たちのぐうたらな中身のない理屈です。

 

彼らは分からないでしょうから説明しますと、身である幹や茎などから離れていく部分が離れて良い時期になってからそれを採取して食べるのは、決して植物を傷つけている事にはならないと言えるのではないかという事です。

 

対象に目を向けることもなく机上論で論破した気になる愚かな人たちは、社会の足手まといなのは反省がないのならネットの世界でも同じで何も変わりません。

 

こういう人たちが幅を利かせることのできるような社会やネットの状態がなくなってくれることを一日も早く、と願うばかりです。この人たちに自分たちの詭弁の発言の釈明をさせる国家的な裁きの場が一度は必要なのではないですか?

 

誰を信じられるかの問題

一般に信じていい人の特徴はあり、はっきりしています

 

あなたの問いかけにきちんと向き合ってくれる人

 

あなたのどんな小さな声も取り上げてくれて、その声に気付いてくれる人


この反対が、絶対に信じてはならない人です。

 

あなたの問いかけを遮り、自分の問いかけがここでの議論だとする人

 

あなたの声を無視し、否定し、隠してきたり、ないことにしたり、抑えつけたり、嘲笑ったり、踏みにじったりする人


後者の人はどれだけ自己弁護して、「私も身を切る思いでやっているんだ、分からないかなぁ」などと言おうが、むしろそれを言う事(「分からないのかなぁ」)が自己中心な他責なのであり、その自己弁護こそが相手の声を遮るため、退けるための手管の一つに過ぎないのです

 

そういう人たちは上辺では悲しい難しい顔を作ってはいますが、心の底では自分の支配がこれでまた上手くいくだろう、周りはこの手でまたコロっと騙されるだろう、と喜んで大笑いで叫びたいくらいにほくそ笑んでいるのです


そういう人たちは心の内実がそういう人たちですから、目が汚く、目元は嫌らしい下心でにやけていて、傍目からはいつもそれが丸見えなのに、自分では気付いていないのです


そういった人たちとは速やかに縁を切り、離れるのが正解です

 

また、そういう人たちに理解を示す(つまりこれは他者侵害に共鳴するという事)人たちというのもその人と一枚岩ですからそこに区別はなく、その一団から離れる事になりますが、それがいいのです


それによって大きな生活の範囲を失ったと思うかもしれませんが、むしろ大きな創造や成長の機会と可能性の自由を勝ち取った事なのです


結局、悪のはびこる場所から追い出されるべきは悪であり善の側ではありません

 

なぜかというと、「はびこる」とは寄生する事であり、侵略する事だからです。自分の家に住む事を誰もはびこるとは言いません


そして、人が集まる事で主流となった土地は、そこから悪が追い出されないなら、それは悪縁の生きる場所であり、善の場所ではないと言えます


すると、その悪のいられる場所というのは、地獄という名前がつくという事であり、それが歴史の事実です

 

そうやって世界は善の住む場所と悪の住む場所が完全に分かれています


一方に一方が迷い込む事で、迷い込んだ者が外に追い返されますが、結局他に迷い込む者は悪なのです。上で述べたように、悪とは侵略し、侵害するという事です


そして善とは、あるべき場所にあってその事に動きがないという事です。これを運動がないから変だと言う人がいたりして大変知識人ぶるのですが、そういった人たちはその発言で、侵略がなければ生きられないと自己表明をしたに過ぎません


正しい人は、正しい位置にあって動きません。それを、動いてくれる人が良い人なのだというような詭弁がなされたりします。しかしそれは悪がそこを取りたいから善はここから自分から出ていってくれと厚顔無恥の要求を平然とする事に他なりません

 

そういう自己中心の観念論がはびこるのが、悪の侵入してきている今の日本社会なのです

価値ある議論とは

ある人を見て思う。


その人は議論において、いつまでもあいまいに自分の立場・主張を明言することを避ける態度を取り続け、同じことをいつまでも議論していたずらに長引かせている。


世の中を見渡し、人類の「哲学・科学」の歴史を見れば、今でも大昔に始まった「ニワトリかタマゴか」の議論をやっている。


その人の議論とは、決して議論を後退させる議論ではないけれども、議論を前進させる議論でもなく、常に横ばいの議論を続けておられる。


そこに私は知性を感じない。


知性とは、理性に従う時に生じてくる命の輝きのようなことである。
もし、理性に従うことすらなければ、知性は死の闇のようにどんよりと曇り、どす黒い気味悪さを漂わせるだけであるか、偽りの光を作り出してそれで世界を自分の考えの一色に染めて、他者の持つ色をその光の色で抑えつけて否定しているだけである。


総括すると、価値のある議論とは、唯一前に進む議論だけであり、後ろに下がる議論が価値がないのは必然として、横ばいの議論にも価値がないとするのが当然である、と思う。


しかし、デカルトはこれを歪めて、


”私が真と見做すような、私から疑いをかけることが不可能であるような私を行動不能に陥らせる対象でない限り、それは確実な真ではなく、そうであれば不確実な偽であると見做す”


という風に考えを表明している。これは完全な誤謬である。


なぜなら、「私」が(真であると)思うことに一致するなら認めるが、「私」が(真であると)思うことに一致しないなら認めない、という態度を表明しているからである。それは理法に従うことではなく、方法を作ってそれだけを通し、それだけを使う、ことだけを自分が認める、という他者と社会を顧みない反逆的で独善的な独断の考え・態度であるからである。


その態度から、善であってもそれが社会に適用されることに抵抗し妨害しているのが今の民主主義社会・議会政治制度の信奉者とその中では野放しにならざるを得ない表現の自由戦士ネトウヨなどの実行者であるような真理への反逆者たちである。


しかし事実を言うと、その一人を除いた全員が抵抗を示しても、善であり正義であり真理であるものは、社会に適用されるのでなければならない。


このことに反するデカルト的な個人主義思想(である観念論)の考え・態度は、紛いもなく、善を破壊するという悪の考え・態度である。

性的侵害表現を「見たくない権利」「表現できる権利」の嘘

見たくない権利というのはおかしい。

また、何でも表現できる権利という意味解釈での表現の自由というのもおかしい。

 

社会では、人々に尊厳を尊重される権利があることを認めるのであって、人々が尊厳を侵害されることが権利侵害なのである。

 

見たくないという事態は、権利がある話なのではなく権利侵害を受けているという話である。

 

 

ここに相対主義という観念論の嘘がある。侵害することがマイナスの害であり、それを取り除き修正することでニュートラルに戻るという話を、ニュートラルに対してそれを不服をいい文句をつけるプラスの害があり、それがなければ問題ないんだということにされている。

 

つまり、性産業やポルノや萌え絵漫画を作る側に侵害行為があり侵害思想があるのに、アベコベにそれを嫌い迷惑をかけられている側に問題行動や問題思想があるかのように話が作り変えられて言われる事が、侵害者側から行われている。

 

簡単に言えば、普通の身長の人に対してその人が背が低いという話を、その背の低い人が自分を普通として規準化し、それに対して普通の身長の人が背が高いとし、そのことが問題だと言うことをする、という観念内の意味の付け替えの詭弁である。

 

そういう詭弁的な手口の常套句が「燃やされた」である。その発想で行けば、ゴミステーションに出されたゴミは「奪われていく」のであり、店での買い物は皆、客に「身代と引き換えに物を取り上げられる」のであり、本を読むことは、紙に印刷した文章を他人に「覗き見られる」ことであることになる。

 

 

話を戻すと、見たくないのが訴えたいことなのではなく、目をそらしたい様な、人あるいは特定の性別の人を貶める思想に触れたくないし、そのような思想があってはならないで、人の尊厳を認めて守るべき、という事が訴えたいことである。

 

見たくないということは、その人が言うわがままの部分であると見做して、それに保護される権利がある、というふうに考えることをする事が、下手をすると裁判官の間ですら常態のようになされている現実があり、完全に社会思想が悪思想に汚染されている。

 

以上を最も簡単に言うと、問題あるのはポルノ萌え絵の側であって、それを「見たくない」という思いにさせられる側ではない。

 

青年向け雑誌をコンビニで販売をやめることは、社会的にまかり通るようにされている侵害に「ノー」を言うことであり、それを誰にも許させないということで、差別の横行することを許す余地がある不備ある社会思想に対する修正の意思表明である。

 

そのように社会的に侵害がまかり通るようにされたのはそれもやはり、観念論による詭弁の手口、意味の付け替えという手口による。

 

女性が男性の持つ「種」を受ける「畑」である、という事実を、男性の侵略を尊ぶのがその侵略を受ける女性の役目、というふうに話を捻じ曲げて社会的な文脈の中に組み込んできた歴史による。

 

そういう逸脱は要するにゾーニングを破ることを善いこと価値があることとするような考えが世にまかり通るように慣らされたことにある。

 

例えば、知識人やセレブ階級でやっているような、性的露出の逸脱が混ぜ込まれる芸術の世界やファッションショーや晴れの舞台の衣装のような時折のゾーニングの破壊行為、人を食ったような破天荒な表現や振る舞い、その社会で当然に信じられ認められている価値の破壊行為などを、善いとか新しいと尊ぶような中身のない裸の王様の悪習である。

 

その手口は、嘘をつき、それが横行する状態を作り、それを社会の普通だとする嘘の前例という考えを作り、その嘘の方が実ははじめからある誠だったのだと人々を洗脳する、という手口である。

 

今の民主主義信仰は、戦後に行われたそういう嘘の詭弁の手口で形作られたものである。

 

児童を性的に道具と見做す人間を、男尊女卑社会が隠れ蓑となって彼らの悪行が行いやすくなって彼らを「生きやすくしている」社会は、それ以前に個人の気分や決定が第一だとする民主主義という悪の主義思想が隠れ蓑としてその悪習を保ちやすくして「生き残りやすくしている」のである。

 

根本の所に悪が寄生しているのが、今の社会や国家である。その寄生する悪を取り除いて悪があるべき場所に戻して、善があるべき場所に善を取り戻して、悪の侵入という「ゾーニングの破壊」に対処せねばならないのである。

 

言葉の意義と詭弁を使う人の実態

社会において研究や議論での問題は、事実本意であるか、気分本意であるか、である


男尊女卑と言われる指標として、女性に男性より劣っていろ、とか、女性は可愛くあれ、というメッセージが挙げられるが、これらはまさに男尊女卑の気分に基づいて言われると、聞き手にも男尊女卑に受け取れるように男尊女卑の考え方や事実を指すという言葉の意義や用法になると言える


しかし、事実として男女の違いや人として(の見立て)という事実を根拠に語れば、どんな言葉でもそれが指すのは男女の事実のこととなるのではないか


・あの人はかわいい→私とは違う存在(事実)であることを認められる、の意、賛意
・あの人はかわいい←私の思い(気分)と違う存在は認められないで気に食わない、の意、異議


・彼女は弱い→男性の反対だ(事実)の意
・彼女は弱い←私の弱さと同じであれ、私よりも優れるという抜け駆けは許さない(気分)の意


すると、できるだけ社会で普通に認知される言葉の平均的解釈を考えて、それに悪い意味で重ならないように、誤解を生む表現は避ける必要がある


ところがある種の人達は、わざとそのような誤解を生む表現を好み、自分の真意を隠し、自分を神秘的に見せかけて、本心を伝えないことで会話におけるその場の偽りの主導権や卑劣な虚偽の優位性を作り出し、他者を欺き他者を支配しようとする


それは俗な言い方をすると、情報を独占することでその場で自分がマウントを取り、相手を見下すことが目的でいるような人間のことである


そのために、存在しないものをあるという前提で自分が相手より知っているという「情報格差」の嘘を作り出してまで、自分が相手より有利だという幻想にしがみつくのである


いわゆるハッタリや虚勢を張るということがそれである。知ったかぶりで知りもしないありもしないことをあるかのように語り自分を誇って中身もないのにドヤ顔をするということである

 

人は、概念のところで概念を語り、行動の時に行動をする、という「前後の二者」の関係に嘘偽りがない時、正しい結果を得ることができる。これを、概念のところで行動を行い、行動のところで概念を語るように後退転倒させているのが、他者を欺く人たち、すなわち観念論者である

 

つまり、口だけで大物を語り、それがその人の唯一の行動である、ということである


そういう人たちは、次のように事実に基づかないで気分に基づいて語り、確実な話を嫌って悪しとし、意味深な曖昧な何が事実なのかはっきりしない闇の語り方を好んで良しとする。そこには事実を扱い問題にする社会的で理性のある善意のある姿勢はない。彼らは、相手の誘導次第で自分がその場でイニシアチブを握れるような、自己の事実に基づかない自己イメージ、自分が何にでも化ける正体の分からない魔術的イメージが他者支配に都合が良いのでそれを纏うことを何よりも第一に好むのである

 

・遠回しな言い方をし、相手に何を指して言っているかその言葉の真意を悟らせない


・語尾を確言せずぼかして曖昧にし、議論での肯定側否定側の正反対の立場において自分がその二択のどちらの立場であるとも言わないでおき、話を進める


・相手の立場を知るために探りを入れて相手に喋るように誘導し、それを相手の話を聞いてやるというふうに偽装しつつ、相手の弱みを探る


・相手をやり込める論法の手口にメドがついたなら、まず相手に落ち度があることを指摘して責め、それの引き合いに自分は落ち度なくやっているとの事実のない誇示をする


・また、その場の議論の方向で相手がいかに低俗で自分より劣っていることしか語ってないかを事実と無関係に得意げに有言無言に吹聴しつつ相手を責め見下す


・そうやって相手を追い込む嘘の優位の仕立て上げを済ませた後、初めて自分の立場を明らかにするが、それは最も単純な世俗の意見の中の一つに過ぎない


・知者のふりをするが最も愚者の類の噂やゴシップの知見しか持たない


・最後まで実体ある現実に根ざした話がない、できない

 

・初めから現実の話をしていないで、自分は常に相手より優位なのだという虚構の幻想だけを語り、そういう主題の議論をしては、他者をそれに巻き込んで犠牲にすることをし、その幻想のために他者を「燃やして」実体もないのに自分が優位だという嘘の「煙」を立てることを目的としている

 

それは例えば、他者に根拠根拠と言いながら、その追及のポーズに根拠ある話を求められると言い訳をして逃げる、のが、彼ら観念論者である

 

彼らがいくらどの様に自分を高尚で知的に飾っていたとしても、話してみればすぐにそうでないことが分かるだけてある

 

以上は単純に、観念論の手口と本質的な実態、ということである

 

 

 

信じる事と善悪

自分は守る気はないのに良い事だと言ったりするのが理屈です

 

守らないのなら信じていないし、信じていないなら良い事ではありえません

 

では、真理を信じない人がいると、真理は良い事ではないのでしょうか?

 

答えは、その人が信じなければ真理があってもそれは行動されないので、その人にとってはないのと同じであり、良い事は起こらない、という事です

 

大切なのは、あるものをあると認める事、大事なのは起きる事と行動される事です

 

いわば、カボチャの実が打ち捨てられない事が大切であり、また、カボチャの実が収穫される事が、カボチャの種にとっては当然であり、種があるなら蒔かれて育てられる事が大事な事なのです

 

ある事が人に行動されるには、信じられていなければなりません。信じるには真理たり得る(真実である)事が必要です

 

例えば、親切は嘘がなく、そうであれば真理たり得ます。嘘をついている場合は人がなんと呼ぼうとそれは親切ではないのです

 

逆に殺人は嘘のために存在するものを殺め、嘘の方に合わせて行動するという事ですから、それは決して善ではありえないのです。もちろん真理ではありません

 

真理たり得ないのに信じる事は、嘘を信じるという事であり、無知であるという事です。そうすると、その人は良い事をなさないので、その人を人(その人自身も含む)は信じないのです

 

結局、(自分が)信じるという事は(人が・人から)信じられるという事です。人から信じられないものは、数人が信じようと真理ではないのです

 

唯一人だけが正しい事を言っていた、という場合、後世の人から信じられる事のないのは大多数の間違った事を信じていた方です。今、信じられているという事は、過去や未来でもそうである事がなくなる事がない、のが分かるという事がないのでなければ到底人に信じられているとは言えず、真理に値しません

 

人というのは、今の事だけを考えても駄目なのであり、前も後ろも考えて見落としなく真実を見つめる時に時間を越えて人となるのです。その事は、人は結局は神に通じ、神を親とするならその子に当たるのが人という事です

 

その、(神の子に当たる)人にすら通じていない孤立した個人というのは、社会の中で信じてもらえない人なのであり、問題は神(つまり、この宇宙を成り立たせている根本原因と認められるもの)が中心であり、そこから切り離された人(つまり、古今東西歴史を通じて社会で知られている知に反抗する現世利益的な無知な個人)が中心ではない、という事です

 

人だけではなく人の生み出すものも事情は同じです

 

萌え絵、ポルノ、喫煙、欲望的嗜好

 

そういった事はみな、真理たり得ません


一人が信じても、その信念は間違いであると見なせるほどに、それらは人から信じれていないで信じるに値しない、侵害の害のあるものとして知られています

 

知られている事が知であり無知でないのであり、そのような害だと知られているものを信じる事が、無知であるという事で、その人は人から信じられないで信じてもらえないのです