信じる事と善悪

自分は守る気はないのに良い事だと言ったりするのが理屈です

 

守らないのなら信じていないし、信じていないなら良い事ではありえません

 

では、真理を信じない人がいると、真理は良い事ではないのでしょうか?

 

答えは、その人が信じなければ真理があってもそれは行動されないので、その人にとってはないのと同じであり、良い事は起こらない、という事です

 

大切なのは、あるものをあると認める事、大事なのは起きる事と行動される事です

 

いわば、カボチャの実が打ち捨てられない事が大切であり、また、カボチャの実が収穫される事が、カボチャの種にとっては当然であり、種があるなら蒔かれて育てられる事が大事な事なのです

 

ある事が人に行動されるには、信じられていなければなりません。信じるには真理たり得る(真実である)事が必要です

 

例えば、親切は嘘がなく、そうであれば真理たり得ます。嘘をついている場合は人がなんと呼ぼうとそれは親切ではないのです

 

逆に殺人は嘘のために存在するものを殺め、嘘の方に合わせて行動するという事ですから、それは決して善ではありえないのです。もちろん真理ではありません

 

真理たり得ないのに信じる事は、嘘を信じるという事であり、無知であるという事です。そうすると、その人は良い事をなさないので、その人を人(その人自身も含む)は信じないのです

 

結局、(自分が)信じるという事は(人が・人から)信じられるという事です。人から信じられないものは、数人が信じようと真理ではないのです

 

唯一人だけが正しい事を言っていた、という場合、後世の人から信じられる事のないのは大多数の間違った事を信じていた方です。今、信じられているという事は、過去や未来でもそうである事がなくなる事がない、のが分かるという事がないのでなければ到底人に信じられているとは言えず、真理に値しません

 

人というのは、今の事だけを考えても駄目なのであり、前も後ろも考えて見落としなく真実を見つめる時に時間を越えて人となるのです。その事は、人は結局は神に通じ、神を親とするならその子に当たるのが人という事です

 

その、(神の子に当たる)人にすら通じていない孤立した個人というのは、社会の中で信じてもらえない人なのであり、問題は神(つまり、この宇宙を成り立たせている根本原因と認められるもの)が中心であり、そこから切り離された人(つまり、古今東西歴史を通じて社会で知られている知に反抗する現世利益的な無知な個人)が中心ではない、という事です

 

人だけではなく人の生み出すものも事情は同じです

 

萌え絵、ポルノ、喫煙、欲望的嗜好

 

そういった事はみな、真理たり得ません


一人が信じても、その信念は間違いであると見なせるほどに、それらは人から信じれていないで信じるに値しない、侵害の害のあるものとして知られています

 

知られている事が知であり無知でないのであり、そのような害だと知られているものを信じる事が、無知であるという事で、その人は人から信じられないで信じてもらえないのです