理性と欲望の観点から分かるポルノや萌え絵が社会に許されない理由

「あなたの説得をする事など私にとって問題ではない
あなたの主張しておられる説は社会的に全く重要ではないし、何らの価値も持たない」

 

これは、私がSNSのある人(たち、と言ってもよい)に言いたい事です

 

その人の主張は、端的に絶対的で変わらないもの、の存在を、なんの根拠もなく自分の説明が辻褄がなんとかつく、ということを根拠に否定しています

 

それは端的に一点が一点に結びつけば真理だと主張しているに他ならず、後付けの嘘は皆真理だという事になるずさんな思考の産物です。机上の空論です

 

なぜなら、この社会に、時代を経ても色褪せない、という観念や認識があり、常識があり、それらを疑う者はすなわち世界の理に反逆して自らを窮地に陥れるものとして理解され知られているからです

 

それを、口の技で辻褄が合うような理由を考え出せたり、相手を言いくるめたりできれば、問われている矛盾の指摘から逃れおおせた、と一人で考え、その一人の考えの中に閉じこもる事で、その態度を押し切る様というのは、以下に挙げる例の幼児そのものであり、それを大の大人が社会の場で臆面もなく公然とやるのですからその害も大きく、それでいて平気という態度は、大変な無知と言わざるをえないのです

 

スーパーで「あのおもちゃ付きのお菓子買って」と駄々をこねて床に転がって泣き喚いている子どもと同じ

 

その人の主張には、社会であるとされて今もその上に立っているのが今の社会や人類の歴史だという事を、ひっくり返そうという意図や魂胆がある事が分かります

 

いわゆる常識や、真理や、教えや、知識といったものに、「そんなものは個人の考えに過ぎない」と言い切るような、どこからそういう発想が導かれてくるのか、それに対応するこの世界の現実の事例が何も思い浮かばない、根拠のない、実体のない、空想の論です。むしろ、妬みや恨みからなら、そういう考えも出てくるだろうと分かるような発想の論でしかありません

 

そこで、まず、先の例を考えてみます。
駄々をこねる子供をどう扱ったら良いか、というもう一つの問題です

 

プラトンの『国家』という(ソクラテスが登場する対話篇の)著作に教えられて私はその解答を明確に理解しました。今回参考になった部分は岩波文庫の『国家(上)』の最後の辺りです

 

私はそこで分かったことを次のように説明します

 

 人には理性がある
 人は時に理性に反する欲望を起こす
 理性はその欲望を抑える
 理性と欲望は理的な綱で結ばれておりその力は拮抗する
 そこに気概、即ち今で言う感情や情動というのがいずれかの側に加担する事がある
6 気概が加勢した側が力が勝ることになり、その結果その側に押し切られることが起こる
 理性か欲望かのいずれかにその人は進む

 

上の子供の例で言えば、気概が加担したのが欲望の側だったから、床で泣き喚くという方に突き進んでしまったと言えます。の段階の部分です。しかしここを分析し(終え)たという事は結論ではないです。ここは、単なる部分の分析の一部分に過ぎません

 

他の部分を見てみると、もっと前に帰って、理性に反する欲望が生じた、というのがあります。の部分ですが、これは通常、理性があれば、欲望は初めから素通りされるものです。

 

例えば、ある商品の広告を見てそれを買うと、大変な損をした、という経験をした人は、同種の広告に買い手としては見向きもしなくなるでしょう。むしろ、同種の広告に対してその詐欺性や犯罪性などの悪のものであることを訴える人、あるいは被害の証言者として社会に立つ人になる、と言えるでしょう

 

また、女たらしの色男の誘いに乗って酷い目にあった女性は、以後、同種の男性に警戒心を持ち疑いの目で見続け、やはりこちらも社会的には結婚詐欺などの犯罪やその他の危険性のある悪についての社会的な証言者となるでしょう

 

これらの例は共にの段階で欲望の側に気概が加勢するようにして欲望に負けた人たちの痛い教訓を学んだという話です

 

この人たちはそれぞれの経験し関わった分野での事柄に対し、の段階より先に進むという事はなくなったと言える人たち、と言えます。

 

少なくとも社会では上のに進んでしまう事が起きる事がないように、親心で、何らかの教育を授けているのであり、理性はその教えの知識を聞いて知ってはいたはずです。

 

つまり、親から教えられた事、教師やその他の教育的役割にあった大人から教えられた事があり、それを聞いて知っていながら、理解せず学ぼうとしなかったために、自分が痛い目に遭って思い知るまで、それらの教えが正しいことに気付けなかったのです

 

つまり、その人たちは理性の一部となる教えの知識を拒んで耳を貸そうとしなかったために理性が一部、働いていなかったのです

 

理性が働いていれば、そもそものような、欲望が素通りされる、事にはならないのです。


すなわち、欲望に引っかかり躓いて転んで、それでも立ち上がらずそのまま泣き喚く方に勝負の利があると見るような、無理な欲望でも押し通せば勝てる、という様な、心の無知な決断という事がなされる事は起こり得ないのです

 

では、例えの本題に帰って、その駄々をこねる子供はどう扱ったら良いでしょうか?

 

欲望に負けることを戒め批判し罰を与える、事ではないのは明らかです

 

理性が欲望に躓くということも有り得ません。躓いたのは己の無知な心なのです。すなわち己の気概が理性を捨てて欲望の側に加担しても勝てるという間違った見込みを生むほどの心、気概の無知が、欲望に負けるという事の心に起きている実態です

 

すると、無知ということが最大の悪の原因という事になります。その原因を除くには、正しくて変わらないものがある事を知る事、です。正しい種を蒔いて、正しい方向に正しく伸ばすという事をどうやればできるかを知る事、です

 

そういうものの無知が、その人に悪の心や誘惑に負ける心の動きをもたらし、その人を不幸に駆り立てるのです

 

1を求めないから、1もないのに2を求める事をし、当然それが叶わず、そこでも自分は間違っていたミスをしたと考えを進め、反省せず何も直さず、3を求め始める

 

そういうのが無知な人の典型的な思考方法であり行動様式です

 

例えば人に対する妬みが憎しみに変わり、殺意に変わるというのもそういうプロセスです

 

そうであれば、理性の声に反するようなものが作られたり、売られたり、宣伝喧伝される事は、社会にあってはならない事のはずです。偽物の商品、粗悪な商品や、それらを売りつける詐欺の商売というのが社会に野放しになっていてはならないでしょう。悪を容認する自分さえ良ければの個人主義やその拡大版である民主主義の思想も、プラトンが説くまでもなく、道理に従って良く考えれば当然、許されるはずがないのは分かるはずでしょう

 

女性を次々に騙す色男風に偽装する心は貧しく醜い、そもそも女性にも男性にも愛されるはずのない醜悪な男の働く結婚詐欺が、社会で許されてはならないでしょう

 

それと同様に、女性やはたまた男性や、主に女子児童を性的に玩具や道具のように扱い自己の性欲のために消費して良いと考えるような作り手によって作り出されるポルノ、児童ポルノの映像記録や漫画、アニメ、ゲームなどは、当然それらの存在ひいては制作が社会で許されるものではないでしょう

 

それらを自由に手に入れられながら、欲望に負ける人間が悪い、という虚構の自己責任を問うその論こそ、自己の責任と言うべき理性の保守と学びをおろそかにすることを高らかに説く悪の擁護思想というべきです

 

そうでなければ、理性というものそのものが、誘惑に負けることが悪いのだという虚偽の自己責任論によって否定されることになります

 

理性と誘惑が拮抗するのが第一の堤防に濁流が押し寄せたという事であり、濁流は欲望の心が起こした嵐によって引き起こされています

 

それは理性という晴天が欲望の種と言える黒雲に覆い隠されてしまった後の結果です。欲望の種を撒く事、をしたのは、理性に反する悪を社会に容認したという事に他なりません

 

すなわち、悪の心から始まっている、他者への侵害を考えて自己が奪い取る事に喜びを見出している心、それを肯定して容認する事で、社会に悪産業や悪の品々、例えば偽物の商品、ポルノ、AVや萌え絵漫画等、が堂々と並べられて売られる事で、社会に悪の種は蒔き続けられているのです

 

それを放置して、芽が出たなら摘み取ればよいのだというのは、それはニンニクの芽の栽培と販売の農産業の展開と何ら変わりはなく、培養と展開に他ならないのです。すなわち、悪心の培養と展開を社会で大々的に行っているという事、です

 

ましてや、悪心から始まる展開に対して、それを善の悪心、悪の悪心と切り分けて、一方には生産や販売許可を与え、一方には生産も販売も禁じ、破れば罰を与えるなどの、規制しているのだから問題ない、合法だから問題ない、違法でなければ問題ない、と後退転倒した罰則主義のような事を社会に開き直って展開するのも、悪心の容認の事に他なりません

 

もし、それらの悪商品が、単なる機械だ、工芸品だ、映像だ、絵だ、それを悪く取るのはその者の心が悪く、そのように勝手に解釈し想像しているだけで、非や責任はその者にあり、霊感の壺や、児童ポルノビデオや、萌え絵の性的な漫画は悪くない、というのであれば、それらはことごとく理性の声に反するのです

 

理性の声に反するような品物は、理性の声に反するような心から生み出されています。そういう品物を、悪でないと言い張るには、理性がない、という前提を主張として立てる必要があり、それらの擁護者はそれを社会の「外」すなわち理性のない荒野に出ていって、そこから声高にその主張を叫んでは、社会の理性ある領域の中に侵入をしてきているのが、今の世の有り様です

 

ここで必要な措置は、彼らとその主張の悪心を、社会の外に追い出す事です

 

これはすなわち、古来から言われてきた、鬼は外、福は内、の真理に他ならないのです