現実から目をそらして自己保身に走る人

現実から目をそらす人は、白いものを白いと見ずに認めず、黒いものを黒いと見ずに認めず、その反対を主張することをしています。

 

すなわち、黒いものは一見黒に見えるがよく見ると白いところもあって、白いという新発見がある、と言い、同じく白いものは一見白いものに見えるがよく見ると黒いところもあって、黒いという新発見がある、というのです。

 

その事から彼らは、新発見をもって人を判断する新方式を始めようじゃないか、と提唱し、世に吹聴するのです。すなわち、白い人は黒いと考えよう、黒い人は白いと考えよう、と提唱するのです。

 

しかし、そのような提唱が受け入れられ、白が白であると認められない世界は、山が山であると認められず、人が人であると認められない世界です。

 

そこに山がある。それは、川だ。いや、海だ。どっちなんだ、とりあえず、山でないことにだけは決めよう。山と言ってはいけない。破れば罰則だ。

 

彼らの言い分では社会の基礎が成り立たないのです。猫をニャーと鳴くから犬なのだ、と主張してそれが通れば、もはや守られるものは何もなく、正しい理解や認識というのはなくなり、正しい行いというのも何も残りません。

 

人が困っている。ならば、困っているのだから、助けよう。

 

こうして人助けが成立するのに対し、彼らは、

 

人が困っている。ならば、困っていない。困っていないならば、助けは必要ではない。助けは必要でないならば、それは困るということがなくて困っている人に対して平等でなく、平等であることが保たれるためにはそこに困ることがあることも必要だから、困らせよう。困っている人には困らせる。これが、これからの世の中の新しい人助けだ。考え方としても困っている人と困らせるということが対応すると、完全に一致していて不純な反対のものがなくなって無駄が省けて分かりやすい。人に優しい考え方だ。

 

と言うような滅茶苦茶なことを主張するに至るのです。(古今東西個人主義哲学や科学の見解は概ね上のようなことを言ってます)

 

彼らの言い分はまた、白はもともと白であるが、これから黒に変化する可能性があると言い、黒も同様にこれから白に変化する可能性があると言い、変化する先に到達するのが何であるかによってそのものの価値や正しさを判断しようと提唱している、かのようです。

 

しかし、彼らに対して言っておきますが、本当に正しいものを知ったならそこから決して落ちることはないのです。例えば、真実の愛と呼べるものを見つけた人は、それを捨てて偽りの愛の方に戻ってみたい、久しぶりに不倫や浮気や略奪愛をやってみるか、などと思うでしょうか。

 

そういうことを思う人が仮にいたとするならば、その人は偽りの愛しか知らないで、今あるものに飽き足りず、何も失うことなく楽してさらに何かを手に入れようとしている、と言うことができるでしょう。その人は戻ったのではなく普段と同じ事をしているに過ぎません。戻るということは今のものを手放すということです。

 

そして、いくら白に向かうという方向の可能性があるからと言って、自分が黒だということを何らの引け目も持たないのであれば、白に向かってはいません。白に転ずる可能性はあってもその種を何一つ蒔くことがないので、いくら時間が経っても黒としての状態に何一つ変化はないか、むしろ、自分には白に向かう可能性があるのだとうそぶいている分、さらに黒さを増していって悪心を育てていっているのです。

 

さらには、白に向かう可能性があるということは、文字通りに受け取れば、黒であるということに他ならず、白でないだけの「罪科」を持っているということです。その「罪科」を償い清算するような心の意志がなければ、黒であることは非難の対象にしかならないでしょう。

 

結局、彼らの考えは何であるかと言うと、白が黒く「見える」、その反対側に黒いところがあるのに「気付く」、また黒に向えば黒の方に「近付く」、という事と、黒が白く「見える」、その反対側に白いところがあるのに「気付く」、また白に向えば白の方に「近付く」、という事とであり、それらを合わせて考えると、言っていることは「自分が思う」ということに他なりません。

 

目の前に白があっても黒があっても、りんごがあっても山があってもお構いなしに、「自分が思う」それだけですべてを決定してしまおう、という考えのことです。それは究極の形を言えば、「これ、ではない、それ(自分の思考)だ」という考えのことであり、もっと言えば「事実ではなく、気分だ」といっているに他ならないのです。

 

事実本位とは神経質(今で言う神経症)の治療で有名な森田正馬先生の説かれた、人の純な生き方、生の欲望を追求していく生き方の概念です。これの反対が、あらゆる一切の神経症を生み出している、思想の矛盾の考え方である気分本位ということです。

 

気分本位にすっかり染まったのが今の日本社会であると言えます。例えば、何でもかんでも「俺の気分」で話が独断で進んでいくのがSNSでの討論です。

 

誹謗中傷や詭弁を自己の手段とされる方々は、皆例外なく、気分本位に基いて、その無理な他者侵害的な生き方を正当化するために、あらゆる一切の世の知識を情報として使って悪用しているような有り様です。

 

科学の名を騙り、統計データを誇示し、さも小難しそうな理屈だけの中身のない空論の演説をでっち上げて、彼らが守ろうとしているものは「俺の気分」なのです。その自己の保身保身のどこまでも底の浅い考えに呆れるほかありません。

 

「社会の事実」それに向き合い、それを守ることができない人たちには、討論も議論もできるだけの社会的な成熟がまだ果たされていないのです。

 

そういう人たちにも、清き一票として同じ重さの投票権を与えている今の考え方こそが、事実に基づかずにそれに明確に反している気分本位の思想の矛盾なのです。