#1
人は先達から学び、時には書物を通して、真実を指し示される
それを見て自分も真実と知り、理解する
その事によって自分は他者の意見に触れると、真実との差の有無を伝える
正しいものは、それがまさに真実から来ているものだと太鼓判を押す
間違ったものは、それがまさに真実から来ておらず人から来ていて、真実とここが違うということを示す
そうであるから、もしあなたが、あるものを間違っている、と言うのなら、その時あなたは真実との違いをそのものに対して、ここと、示せるはずである
もしあなたが示せる何も持たないなら、あなたは真実を知らないのであり、それが間違っているという事も知らないでいて間違っていると言っている事になる
例えば、水の沸点は100度だと言うと、ある人は98度で沸騰することもあるから間違いだと反論する
しかし、水が沸騰を起こすその温度が、100度が目安になるという話であり、それ以外の話はない
つまり、98度が沸点だというのは、数字の98の意味の一つが水の沸点だという話であり、それは科学の水の沸点の話ではない
科学では、水の沸点の一つが、98度なのであり、他の一つが100度なのである
これはまた、他の一つが101度であるという事もある
その中で目安を一つ定めて100度としたのであり、それは畑で収穫した野菜の山をその種類ごとに一つに代表して人参といったり、大根と言ったりするのと同じである
あるいは、それらの飼い犬を単に犬と言ったり、親がその兄弟たちを子供と言ったりするのと同じである
いわば、太郎と花子と梅子と次郎は私の子供である、という話を、反論者の彼は、「いや、花子の意味の一つが子供なのだ、太郎の意味の一つが子供というのは間違いだ、子供なのは、太郎でなく花子だ」と言ったに等しい
それは、「いや、98の意味の一つが水の沸点なのだ、100の意味の一つが水の沸点というのは間違いだ、水の沸点なのは、100でなく98だ」と言ったに等しい
しかし事実は、すでに言った通り、水の沸点の一つが98度であり、また、100度である。98や100は、水の沸点の一つ一つである、という事である
これを彼は強弁して言い訳し、「100だけが水の沸点ではないのだ」と言うのなら、その時点で98も100もどちらも水の沸点の温度としえありうるので、何も間違いではない
ましてや、98度との指摘で否定される自分の考えがないのであるから、何も間違いではない
何が間違いなのかを彼に問えば、彼は、「100だけ、と言ったのかと思った」とお茶を濁すしかあるまい
この事から反論者の彼は、単に論点をずらした作り話をふっかけて、他者を陥れようとしたに過ぎない
それは小学生の間で流行る悪意のあるとんちの類であり、他者をやり込める低級な理屈を面白ばなしの雑学として覚えるような事の類である
その悪性の性根が抜けないと、学問の畑の中でそのやり込めのとんちを常習するようになる
#2
理論とは 何かがうまくいかないからそれを解決するために生み出されるものである
ならば 新しい理論を提唱するということは 何の問題を解決するための理論なのかと 説明することが必要である
さらにはその理論の中で出てくる自前の定義や用語の類は全て説明されてあるのでなければならない
そのようにしてから 初めて 世の中で その理論を用いた言論をすることができるのである
そうでなければ 他者と通じる話の地盤がないその話の地盤がなければ 言葉も通じないのである
それで結局、真理を語るとはどういう事かというと、それは(その語る人に)資格がある、という事である
資格がない人は、真理を知らない人である
真理を知り、理解するには、そこまでの学びや修練が必要である
それが整った後に初めて真理を真理と知れるのである
これは、事物を事物と知るためには、自らがそれに目を向ける準備が整う事が必要なのに似ている
見なければ、知る事もない
知らなければ理解する事もない
すると、「存在とは認識する事である」というある近代哲学者の言葉は真っ赤な嘘である事が分かる
それは、資格が整って初めて真理を真理と知る事に、似ても似つかない
それは、私がそれを認識してやれば、そのものは私の向こうに存在するようになる、と言っている
しかし、私の向こうにあるのが事物であり、また基に帰って、私がその真っ只中にあるのもまた、事物である(それは人の中の観念の話であって人の外の事ではない事は言うまでもない)
つまり、向こうにある事と真っ直中にある事は決して切り離されておらず、真っ直中を否定し、事物と関わりなくその外から眺めるというような、向こうにある事物それだけが実在、というような近代的な(古代からあって未だ絶えてない)詭弁思考がここでは成されている
それは、議論の論点のすり替えの手口である
また、これは、98度も100度も共に、水の沸点の一つ一つというのと同じである
しかし、先の哲学者の考えは「100度が水の沸点だと?98度で沸騰しているではないか」というのと同じであり、水の沸点を考える私の向こうに98度がある、という考えで、水の沸点を考える私にあなたの見た98度も、私の見た100度も、共にある、という、水の沸点が主語、温度が述語の話をしないで、98度が主語であり、水の沸点が述語である話をすることが正しいと主張している
しかし、科学で、98度を主語にした、水の沸点という述語の話がされている事実はない
哲学でも同じ
私の認識を主語にした、向こうにある事物や、真っ直中にある事物や、自分の中にある内面的な事物などの述語の話は哲学でなされるが、向こうにある事物を主語にした、私の認識という述語の話がされている事実はないのである
つまり、先の近代哲学者は、学問の畑の中で、すでに心を傷つけられて恨みを持つ子供の喜ぶ悪意のとんちやり込め話に興じている悪意のある人間である
そういう悪意のある低級な思考法が流行するのは、流行とは悪の意図が巻き起こす混乱に他ならないという事である
社会の現実は常に善の意図や意志からなされているそこだけで動き、こうして歴史を紡いできているものである